第27回 早わかりクラシック音楽講座 2009/6/28(Sun)

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「音の魔術師モーリス・ラヴェルの魅力」

内容
≪ 音の魔術師モーリス・ラヴェルの魅力 ≫
第1部:ピアノ生演奏(Piano:愛知とし子)
第2部:モーリス・ラヴェルの人生62年を振り返る。幼年期、少年期からパリ音楽院時代を経、第一次世界大戦前まで
第3部:第一次世界大戦以降、円熟の時代からアメリカ訪問旅行、そして死まで
-お茶とお菓子付-

第1部
□ピアノ生演奏(Piano:愛知とし子)
①ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
②ドビュッシー:アラベスク第1番
③ドビュッシー:月の光

愛知とし子お得意の3曲からまずはスタート。さすがにコンサートやレコーディングで何度も披露している楽曲なので、堂に入った何とも素敵な演奏でした。1曲目の「亡き王女のパヴァーヌ」は1899年、すなわち作曲者24歳の頃の作品ですが、ラヴェル自身は後年まで全く評価していなかった音楽だといわれています(確かに何度も聴き過ぎると飽きるきらいはありますが・・・)。とはいえ、1910年になってラヴェル自身が管弦楽曲に編曲しているくらいですから、この音楽を必ずしも全面的に否定していたわけではないと思われます。

写真 001

第2部
□モーリス・ラヴェルの人生62年を振り返る。幼年期、少年期からパリ音楽院時代を経、第一次世界大戦前まで
ラヴェルは生涯独身でした。興味深いのは、結婚どころか恋愛(対異性同姓いずれも)の片鱗すら伺えないという事実です。そう、恋愛したという証拠、形跡が一切見当たらないのです。これまでこの講座でも多くの作曲家を採り上げてまいりましたが、結婚できなかった天才(ベートーヴェン、ブルックナー、ブラームスなど)はたくさんいるものの、恋愛を一切しなかった天才は誰一人としていなかったため、かくも妖艶な音楽をラヴェルがどうして書けたのか皆さんとても不思議に思ったようです。
「恋愛をせずしてなぜ音楽が創造できたのか?!」このあたりの疑問を提示するところから講座をスタートし、まずは、前述の「亡き王女のためのパヴァーヌ」オーケストラ版を聴いていただきました。オリジナル・ピアノ版とはまた違った装いで、オーケストラの魔術師といわれたラヴェルの本領発揮といわんばかりの音楽です。
①「亡き王女のためのパヴァーヌ」(管弦楽版:1910年作曲)
アンドレ・クリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団

ラヴェルの生い立ちはどういう風だったんだろう?どんなお父さん、お母さんのもとで育ったのだろう?
父ジョゼフはスイス国籍の技師で、子どもの頃から音楽にも非常に興味を持つ人、そして母マリ・ドルアールはとても献身的な妻であり、母であったということで、特にモーリスの社会的成功を生涯誇りにしていたということです。そう、お母さんにとってみると目にいれても痛くないほどの子どもだったということなのです。どうやら「母との関係性」-その辺りにラヴェルの音楽の本質、人間性の本質があるようです。
天才といわれる古今東西の作曲家同様、ラヴェルも子どもの頃から音楽的才能を発揮し、14歳の時には初の公開演奏を開催、同年パリ音楽院に入学します。そして、ちょうど同じ年、パリで開かれた万国博覧会で聴いたバリのガムラン音楽やジプシーの音楽に衝撃を受け、ラヴェルの音楽家人生の中で多大な影響を与えていることも付け加えておきます。

②「バリのガムランⅠ-世界の夜明けの音楽」~バロン・ダンス、ケチャ・ダンス

当初ピアノ科に入ったものの諸事情で退学、作曲科に移り、ガブリエル・フォーレの薫陶を受けます。いずれにせよ19世紀後半にはすでに作曲科として一流の仲間入りをするほどの腕前をもっていたことは明らかです。そのラヴェルが5回挑戦し、結局入賞すら果たせなかったコンクールに「ローマ賞」があります。1905年には、すでに名声を博していたラヴェルが予選落ちしたことから政治的なスキャンダルにまで発展した「ラヴェル事件」。しかしながら、そもそも「ローマ賞」とは有望な作曲家を発掘することにその目的があるのではなく、各地にある国立音楽院などでのポストを埋めるに相応しい人材を探すことに目的があったということなので、そういう観点から考えるとラヴェルの落選は納得がゆきます。決して裕福とはいえなかったラヴェルは第1位副賞の賞金を狙って何度も「ローマ賞」に挑戦したのだろうと今となっては推測されているほどです。

1905年以降第一次大戦が始まる1914年頃までがラヴェルの全生涯で最も集中的に作品が生み出された時代でした。「スペイン狂詩曲」、「夜のガスパール」、「高貴で感傷的なワルツ」、「ダフニスとクロエ」などなど、名作が目白押し。今回の講座ではこの時期の名曲群からピアノ連弾による「マ・メール・ロワ」を聴きました。

③「マ・メール・ロワ」(ピアノ連弾)
マルタ・アルゲリッチ、チョン・ミョンフン(ピアノ)
1998.11.30Live別府ビーコンプラザフィルハーモニアホール

第1回別府アルゲリッチ音楽祭での貴重な音源。アルゲリッチとミョンフンのピアノには相当の温度差が見受けられますが、白熱の名演奏です。ちょうど当日現地で実演を聴きましたが、その日の記憶がまざまざと蘇るほど熱いコラボレーションなのです。

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第3部
□第一次世界大戦以降、円熟の時代からアメリカ訪問旅行、そして死まで
休憩を挟み、第一次大戦以降の話題に移ります。大戦中にラヴェルが友人に宛てた手紙「悩みは本当に一つだけ。哀れなママンを抱きしめてあげられないことです・・・」という件から、彼の人生が「母親という幻想」を生涯追い続けたものだったのだろうということをあらためて考えさせられました。1917年初頭、そのお母さんがついに亡くなります。以降3年間、ショックのためラヴェルはほとんど創作ができない状態に陥ってしまうのです(そのことから考えてみても恋愛が出来なかったモーリスの意識は常に「母親」というものに向いていたのだろうと考えられるのです)。

母親をなくしたショックからようやく立ち直ったラヴェルは1920年代に入り、一層円熟の境地を迎えます。まずは、1922年、クーセヴィツキーの委嘱により、ムソルグスキーの「展覧会の絵」の編曲。この音楽がこれほど一般的になったのは間違いなくラヴェルの天才的なオーケストレーションの功績でしょう。下記の音盤により抜粋で聴き比べをしました。
④ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」~プロムナード&キエフの大門
イーヴォ・ポゴレリッチ(ピアノ)
⑤ムソルグスキー(ラヴェル編曲):組曲「展覧会の絵」~プロムナード&キエフの大門
ウラディーミル・フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団

さらに1928年にはアメリカ演奏旅行を敢行し、ガーシュウィンらと出会い、ジャズの洗礼を受けたこともラヴェルにとっては大きな事件でした。同年11月に初演されたラヴェルの音楽の中でも最も有名な「ボレロ」をまずはCDのみで聴き、その後、モーリス・ベジャールによってバレエ化されたジョルジュ・ドンの「ボレロ」を鑑賞しました。
何度観ても素晴らしいですね。皆様にも好評でした。

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次回はイタリア歌劇の巨匠ヴェルディを採り上げます。乞うご期待!