第33回 早わかりクラシック音楽講座 2009/12/26(Sat)

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「歌曲王フランツ・シューベルト~31年の生涯と作品」

内容
≪ 歌曲王フランツ・シューベルト~31年の生涯と作品 ≫
第1部:生い立ち、幼年時代~転換の年(1797年~1820年)
第2部:作曲家としての自立~後期への入口(1821年~1824年)
第3部:晩年の奇跡(1825年~1828年)
-お茶とデザート付-

第1部
□生い立ち、幼年時代~転換の年(1797年~1820年)
1797年1月31日にウィーンで生まれたフランツ・ペーター・シューベルト。幼少時より学校教師の父フランツ・テオドールから読み書きや算数などの一般科目を教わり、同時に音楽の最初の手ほどきも受けました。この父の存在は後に彼の内に葛藤を生み出す最大のネックになるのですが、音楽的才能を開花したのも父の存在あってのことと考えると、やはり人生経験に無駄はひとつもないということがわかります。1808年の初夏には「コンヴィクト(国立寄宿制神学校)」に入学し、1813年の秋に変声期を迎えるまで5年間ここで学び、およそ90曲の初期作品を残しました(この間、1812年5月には母の死にも遭遇することになります)。
コンヴィクト卒業後の1814年、フランツは父の意向に沿って師範学校の予科に通い、助教員の免許を取るための勉強に勤しみます。そして1年間の教職課程を終え実家に戻り、父の学校の助教員になりました。おそらく父の考えに表立って反抗することができなかったのでしょう。この年、ゲーテの詩に初めて曲をつけた作品が生まれました。後に作品2として出版される「糸を紡ぐグレートヒェン」D.118です。ファウストの誘惑の犠牲になって身を滅ぼしながら、なお純愛を捧げて天の救いに入る悲劇の女性グレートヒェンの純真な乙女心に、恋の歓びと痛みとが最初の波紋を重くのしかける様が、糸車の絶え間ない動きにのせて歌われる名曲です。

①「糸を紡ぐグレートヒェン」D.118
クリスタ・ルートヴィヒ(アルト)、アーウィン・ゲイジ(ピアノ)

そして、145曲の歌曲が生まれた豊作の年1815年。世間は「会議が踊る」ウィーン会議の最中。この年の歌曲から後に作品3の1曲として出版されるゲーテの詩による「野ばら」D.257を聴きました。小学生の頃、音楽の授業で聴いた「わーらーべーはーみーたーり」というあの有名な音楽です。しかし、ゲーテの原詩は意外にも恐ろしい内容をもつものなのです。

②「野ばら」D.257
フリッツ・ヴンダーリヒ(テノール)、フーベルト・ギーゼン(ピアノ)

青年シューベルトにとって神のように崇める存在がモーツァルトでした。1816年に書かれたヴァイオリンと弦楽合奏のためのロンドイ長調D.438などは明らかにモーツァルトの影響を受けているであろう佳作です。当時の作曲家は、小学校の教職を志願するも失敗、生活は定職なしのその日暮らし状態でした。友人ショーバーの下宿に居候し、自由な生活を送るという日々でした(とはいえ、印税で生活できるほどでもなかったのですが)。また、親友シュパウンが彼がそれまでに書いたゲーテ歌曲を、文豪の下に送り届けたのですが、ゲーテからは一切の返事がなかったという逸話も残されています。
同年11月に生み出されたこれまた有名な「子守歌」を聴きました。そう、「ねーむれー、ねーむれー、はーはーのーむねにー」というあの歌です。

③「子守歌」D.498
リタ・シュトライヒ(ソプラノ)、エリック・ヴェルバ(ピアノ)

1817年~18年はいわば転換の年でした。教員生活に終止符を打ち、作曲活動に専心するようになった年でもありました。この頃には、友人たちの詩につけられた歌曲が多く作曲されています。有名どころを2曲聴きました。

④「ます」D.550
イアン・ボストリッジ(テノール)、ジュリアス・ドレイク(ピアノ)

とても有名なメロディを持つこの歌もその詩を読んでみると、意外な内容であることに驚かされます。小川を自由に泳ぎまわるますを眺め、やすらぎを感じるわたし。そこに釣り人が来てこのますを釣り上げてしまう。その光景を見ながら暗澹たる気持ちになるわたし。父親の束縛から逃れられない自身をこの詩に見るのでしょう。楽しい歌の中にも悲哀を感じさせます。

そして、友人ショーバーの詩に曲をつけた「楽に寄す」。音楽のもつ力を賛美した名曲。

⑤「楽に寄す」D.547
イアン・ボストリッジ(テノール)、ジュリアス・ドレイク(ピアノ)

1817年12月には、父が新たに学校を引き受け、再びその手伝いのために教員生活に戻されることになりますが、翌年夏の避暑から戻って以降は助教員の仕事には還ることなくいよいよ作曲家として自立の道を歩むようになりました。1819年~20年にかけては、劇場音楽に力を注ぐようになります。当時の作曲家にとってオペラ作品で成功することは悲願であり、社会的地位を築くために必須だったのです。しかしながら、それまでに創った舞台作品はどれも上演されないままで終わったものの、ジングシュピール「双子の兄弟」D.647がやっと上演されたのです。そして、2年前に創られた「ます」の旋律をもとにひとつの室内楽曲が生み出されます。

⑥ピアノ五重奏曲イ長調D.667「ます」
エリーザベト・レオンスカヤ(ピアノ)、ゲオルク・ヘルトナーゲル(コントラバス)
アルバン・ベルク四重奏団

第4楽章に「ます」のメロディを使用し、歌と器楽の融合を目指した傑作。時間の関係でこの楽章だけを楽しみました。通常の弦楽四重奏編成にコントラバスを加えたこの楽曲の低音の重みはとても意味深いものです。

写真 001

第2部
□作曲家としての自立~後期への入口(1821年~1824年)
1821年以降、作曲家としてますます磨きのかかるシューベルトは、オペラ作曲の努力を続行します。そんな中、4月、友人たちの尽力により傑作歌曲「魔王」が栄えある作品1として出版され、爆発的売れ行きを示しました。

⑦「魔王」D.328
イアン・ボストリッジ(テノール)、ジュリアス・ドレイク(ピアノ)

これも中学校の音楽の授業で聴かされた有名な音楽ですね。当時は日本語訳での歌唱だったと記憶します。このゲーテによる詩についてもシューベルトは父への憎悪、愛などを感じたのかもしれません。

1822年は、ショーバーの家に身を寄せ、画家のシュヴィントや劇作家のバイエルンフェルトなど芸術仲間との交流を深めた年でした。死後発見されたいわゆる「未完成」交響曲が書かれたのも同じ頃のようです。7月、自叙伝断片「僕の夢」を残しましたが、それを読んでみると、父親との争いと和解への願い、そして母親の死がもたらした衝撃と悲しみ、そして愛の問題が深刻であったことが伺われます。当時のこういった心境が「未完成」交響曲に投影されたと考える評論家も多いのですが、果たして真相はどうなのでしょうか?

⑧交響曲第8番ロ短調D.759「未完成」
ギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団(2000.11東京ライヴ)

ヴァント最後の来日になったコンサートから件の交響曲を聴きました。当日のホールに舞い戻ったかのような錯覚に襲われながら30分弱のひとときを堪能。あえてこの曲が2楽章だけ残されたことにも「意味」があるような完璧な名曲であり、名演奏です。

1823年は年初から健康が優れなかったものの、好評を博した劇音楽「ロザムンデ」をはじめ後世に残る音楽が数々生まれています。

⑨劇音楽「ロザムンデ」D.797~第3幕間奏曲
ピエール・モントゥー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

それにしても美しい。何度も繰り返される主題部の音楽は後に弦楽四重奏曲や即興曲に転用されていますが、作曲者本人もそれだけこのメロディを愛したのでしょう。

写真 006

第3部
□晩年の奇跡(1825年~1828年)
1825年からの怒涛の4年間は、まさに作曲家として孤高の境地に辿り着くものでした。もちろん31歳にして亡くなるとは夢にも思わなかったのでしょうが。ピアノ・ソナタの世界も充実度を増し、次々に傑作が生み出されます。歌曲においても「アヴェ・マリア」として有名な「エレンの歌第3」が書かれました。

⑩「エレンの歌第3(アヴェ・マリア)」D.839
バーバラ・ボニー(ソプラノ)、ジェフリー・パーソンズ(ピアノ)

1826年の4月にはオーストリア皇帝フランツ1世に宛てた宮廷副楽長の地位への請願書を提出するも結果は不合格。やはり、それまでの放浪者的生活から抜け、安定した生活基盤を求めようとしていたのかもしれません。

死の前年の1827年には尊敬するベートーヴェンがこの世を去ります。当時、連作歌曲集「冬の旅」の創作に没頭していたシューベルトの内面にも当然深い影響を与えたと思われます。ますます全力を挙げてこの大作に力を注ぐようになりました。「冬の旅」から有名な「菩提樹」を。

⑪歌曲集「冬の旅」D.911~第5曲「菩提樹」
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)、ジェラルド・ムーア(ピアノ)

「私のところへおいで、若者よ、ここならお前は憩いが得られる!」

終生癒しと愛を求め続けたシューベルトの想いが、ヴィルヘルム・ミュラーの詩と美しくも哀しい音楽によって語り継がれる。

いよいよ、1828年は最後の年。この年には28の作品が書かれます。大ハ長調交響曲をはじめ、ミサ曲第6番、「白鳥の歌」、弦楽五重奏曲、最後の3つのピアノ・ソナタなど信じられないような高みに達した名作が次々に生まれます。その中から、最後のソナタD960の第1楽章を抜粋で聴きました。シューベルトの最も内面的な自己を表現した「美」の音楽。

⑫ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D.960~第1楽章冒頭
内田光子(ピアノ)

1828年11月19日、フランツ・シューベルトは永遠の眠りにつきます。腸チフスとの診断が出ているものの死因は不明のようです(梅毒説の信憑性が高いでしょう)。

写真 007

31年という短い生涯ながら1000曲にも及ぶ楽曲を残したシューベルトの生涯をわずか3時間の講座で採り上げるのは少々無理もありましたが、歌曲や交響曲など有名な音楽をはさみながら参加者ともども十分堪能させていただきました。
次回の講座は2月の愛知とし子コンサートのプログラムに入っているムソルグスキーの「展覧会の絵」を採り上げます。コンサートともどもぜひまたご参加お待ちしております!
皆様良いお年を!