2008年12月アーカイブ

faure_plasson.jpg今年も大変お世話になりました。
まもなく2009年。来年はより一層の飛躍の年にしたいと心密かに思っております。どうぞよろしくお願いします。

これから旅に出る。といっても岐阜県、滋賀県方面。そう、いわゆる帰省。上京してかれこれ26年。「帰って来い」というお盆には決して帰らなかった親不孝者の僕も年末年始は必ず実家に帰り、親兄弟、親戚と顔を合わして一家団欒を過ごした。何だかんだ言いながら、ほっとする瞬間であったことを白状する。若い頃は血縁などというのは逆に鬱陶しいもので、「独りで居る」ことを粋がっていたが、歳をとるにつれ、身近な人の大切さがよくわかる。ありがとう。そしてこれからもよろしく。

出発前に聴くフォーレの管弦楽曲集。フランス楽壇の名手たちの奏でる愁いを帯びた優しい旋律が身に染みる。

一茎草の菜食ラーメン

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年の瀬とは思えないほど暖かい・・・。大江戸線と日比谷線を乗り継ぎ、はるばる三ノ輪にあるラーメン創房「一茎草」に行く。店主の田中玄さんは、知る人ぞ知る業界では有名な方らしいが、残念ながら僕にとってはお初の名前。11月の「愛知とし子リサイタル」にご来場いただいた際、お会いさせていただいたのが最初。とても気さくな方で、何と動物性の食材を一切使用しない菜食ラーメンも提供しているとのこと。そういう話を事前に聞いていたのでともかく年内にはお邪魔しようと思っていてぎりぎり間に合った。写真は撮りそびれたもののとても野菜だけとは思えない濃厚な味。麺がまた独特でモチモチとして美味しく、もう少し近所にあればしょっちゅう通うだろうな、などと考えながらスープまで完飲。美味かった。ご馳走様でした。
その後、オーガニックカフェ「むぎわらい」に移動。5人でお茶をしながら歓談。こちらも落ち着いた雰囲気で、サービスもよく、ゆったりと心地よい時間を過ごさせていただいた。ランチも美味しそうなので今度はこちらに来てみよう。
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今年は暗いニュースが多かった。アメリカ発の金融危機の影響をもろに被り、企業の倒産が相次いだ。僕の身の周りでもそういう目に遭った友人がいるわけだから、その深刻さは計りしれないものなのだろう。とはいえ、街中を散策してみると、例年と変わりない歳末風景が目に飛び込んでくるし、デパートの食品売場などもそこそこの活況を呈しているように見え、何だかメディアに踊らされているだけなのではないかという疑念も湧いて出て来る。
「不況」という言葉、「解雇」という言葉。新聞やテレビで目にする言葉はそういったものばかり。そのおかげで皆が将来に対して不安になっている。しかし、未来のことなど神様以外誰にもわからないことなのだから、余計な心配は隅っこに置いておいて、ともかく今を一生懸命生き、できることを気楽に前向きに積み上げていったほうが生きやすい。生来「暢気」気質で、「まぁ、何とかなるだろう」というのが僕の口癖だが、焦らず着実にをモットーにがんばろう。こういう時代は逆にチャンスなのだから。

運動音痴?!

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昨晩は10数年ぶりにボーリングというものをやってみた。歌舞伎町で旧知の仲間たちが忘年会をやっていると聞き、少々遅れて合流。宴終了後、そのままコマ劇近くのボーリング場になだれ込んだ。すっかりルールなどは忘れてしまっているものの、感覚的には意外に健在、スコアも105と、この年齢でしかも運動音痴の身としては随分健闘した方だろう。それにしてもスポーツ、それも「球」を扱う団体競技は昔から大の苦手で、中学生の頃は部活をいかにサボるかばかり考えていたことを思い出す。もちろん高校の時はクラブ活動には属さず、いわゆる「帰宅組」。勉強しなければいけないので部活などやってられないなどと態のいい言い訳をつけて、結局は運動というものから逃げていた自分に今さらながら気づく。青年期のいわゆるスポーツ活動を通して人間は人間関係や目標達成などを学んでいくものだから、大事な時期に大事なことをやってこなかったことは僕自身の大きな欠点として後々随分尾を引いた。
例えば、目上の人たちへの接し方。あるいは明確な目標を設定し、それに対してとことん固執してやり遂げるということ。ちなみに、個人として「目標」を決め、成果を挙げることは極めて得意。それがチームをまとめるとなると勢い苦手になるのだから、マネージャー向きではないのか・・・。
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四川省大地震クリスマスチャリティコンサート
ダニエル・ハーディング指揮新日本フィルハーモニー管弦楽団
東京芸術劇場大ホール
・ドヴォルザーク:序曲「謝肉祭」作品92
・エルガー:愛の挨拶作品12
・ヴェルディ:歌劇「運命の力」序曲
・ドヴォルザーク:スラヴ舞曲集第2集より第7番ハ長調作品72
・ドヴォルザーク:交響曲第9番ホ短調作品95「新世界より」

ダニエル・ハーディングの実演を初めて聴いた。予想に違わず、濃淡のはっきりとした推進力のある快演であった。昨年から今年にかけ、オーケストラものといえば「宇宿允人&フロイデ・フィル」ばかり聴いていたものだから、さすがにオケの上手さが際立っていた(ように感じる)(笑)。

シューマンとブラームス

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もうかれこれ10年になるだろうか。ちょうど夏休みにドイツ南部とギリシャを旅行した時のこと。フランクフルトやハイデルベルク、ボンやケルンを訪れ、当地の音楽を堪能しつつ、作曲家や音楽家の足跡を辿りながらのんびりとしたひと時を過ごした。微かな記憶を頼りに、当時体験したその地の空気を思い起こしてみると、不思議な違和感を覚えたのが、ボンで訪れたロベルト・シューマンのお墓。当然のことなのだが、同じ墓地には妻のクララも葬られていた。

実は、その数日前にはクララ・シューマンが夏の別荘を持っていたというバーデン・バーデンまで足を延ばし、ヨハネス・ブラームスが1865年から1874年の夏を過ごした家とそして今は存在せず改修されたというクララの住居周辺をぐるりと散策し、温泉保養地らしいとても気持ちの良い爽やかな風と太陽のエネルギーが充満した空気を十分味わわせてもらっていた。
―この地では、ブラームスによりピアノ五重奏曲作品34(1864)、チェロ・ソナタ第1番作品38(1865年)、ホルン三重奏曲作品40(1865年)など室内楽の名作が次々に生み出されているのだが、これらはクララへのほとんど恋愛に近い感情の発露としての作品群なのだろうと想像でき、まさに彼女の存在こそがヨハネスの創造力を掻き立てる源泉であったことが如実に物語られているようだ。―

自然の叡智

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人間が智の限りを尽くした創造物も自然の叡智には決して敵わない。

朝、起き抜けにサンソン・フランソワの弾くラヴェルのピアノ曲全集を聴いていて、まるでオーケストラを聴くような錯覚にとらわれた。46歳という若さで早世したフランソワは、真の芸術家タイプのテクニシャンだったそうだが、彼の弾くショパンを含めたフランスものを耳にすると、本当に惜しい逸材を世界は早くに無くしてしまったのだと痛感する。同盤の解説書の中で今や懐かしき三浦淳史氏が書かれているのだが、フランソワは録音に際して、ほとんどみな一発録りだったという。今の時代のライブ・レコーディングとは違い、1960年代のあの当時にそういうスタンスで音楽活動を繰り広げていたとなると、大変なテクニックと自信だったんだろうと推測できる。なぜかくもフランソワの演奏が魅力的なのか・・・?確かな技術に裏づけされた一瞬一瞬を大切にした感覚的な「芸術」だから。そう、計算がないのである。いや、その言い方は語弊がある。計算の上に加味された絶妙な即興性がバランスよくものをいっているのである。
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何とイーヴォ・ポゴレリッチの来日公演中止というお知らせが突然送られてきた。どうやら本人の急病ということらしいが、納得のゆくベストの状態で我々の前に姿を見せることができないと判断した上での決定なのだろう(実際に病気なのかもしれないが)。こういう個性的なアーティストは皆そうだと思うが、とにかく自分自身の精神状態を重視する(自己管理がしっかりしており、お金儲けに目が眩んで決して無理をしない)。それは最高のサービスをするためには自分の状態が最高潮でなければならないということでもあり、できるときはやる、できないときにはやらないという白黒はっきりさせる潔い態度が逆に好感持てる。2年ぶりの公演だったゆえとても楽しみにしていたのだが、こればかりはいたしかたない。何とも素敵な(?)クリスマス・プレゼント第1弾。
イブのひと時「童心」に戻って過ごそうと、昼から「東京ディズニーシー」を訪れた(似合わないなぁ・・・笑)。素敵なクリスマス・プレゼント第2弾。都合8時間ほどのんびりゆったりと楽しく過ごすことができた。まずは、アメリカンウォーターフロントでのショー「オーバー・ザ・ウェイブ」。次に、アラビアンコーストのアトラクション「シンドバッド・ストーリーブック・ヴォヤッジ」を軽く。そして、おすすめのロストリバーデルタでのショー「ミスティックリズム」を堪能し、さらにアトラクション「レイジングスピリッツ」と続き、最後はメディテレーニアンハーバーで行われた「キャンドルライト・リフレクションズ」。とてもきれいでした。
しかし、さすがに疲れた。あれだけ大勢の人たちに囲まれていたということもあるし、ほぼ立ちっぱなし、歩きっぱなしの状態だったので当然か。もうしばらくは来なくていいかな、という感じ。やっぱり人工的な「造りもの」感は否めない。悠久の時間を体感できる「自然」に勝るものなし。こういう日は生で名演奏を聴いて癒されるのが一番だが、さすがにそうもいかない。

夢をかなえるゾウ

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品川ステラボールで開催されている「夢をかなえるゾウ」の舞台を観た。原作は、今年最も注目を集めた小説で170万部のベストセラーということらしいが、どういうわけかこういう直球の「啓発本」には興味がなく、つい先日までその存在すら知らなかった。おそらく小説はそれなりの面白さがあるのだろうが、今日の舞台は可もなく不可もなく・・・。正規料金8,000円を払ってまで観る価値があるとは思えない作品で、招待していただいたので良しとし、ほっと胸を撫で下ろす。
一番の問題は、出演者の誰一人として特別に惹きつける魅力をもった人がいなかったこと。僕は舞台には疎いので下手な批評はできないが、こういうものは誰か主役級の俳優が他の出演者や観客を縦横に巻き込み、その彼(あるいは彼女)を中心とした世界が表出されてこそ最高のものになるのではないかと思うのである。そういう意味では皆さん演技をそこそこ上手にこなしていただけで、飛び抜けて説得力のある魅力的な役者がいなかったことが弱点。
第二に、無用なミュージカル仕立ての演出。ああいうダンスやアクロバティックな動きは見せ場といえば見せ場なのかもしれないが、舞台の進行上過剰な印象を受け、流れが分断され、全体が散漫になってしまっていたところがいただけない。
おそらく原作はもう少し含蓄に富んだ「啓発的な言葉」が頻出しているのではないかと推測するのだが、いずれにせよ読んでもいない本のことは語ることはできないので辛口批評はこれくらいに留めておこう。いずれ機会があったら原作を読んでみたいものだ。
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気の許せる仲間たちと集い、「年忘れクリスマス・パーティー」という名の懇親会。「セミナー」を受けていただいた方という条件で10名ほど。ここしばらくホームパーティーは開催していなかったので、久しぶりに新鮮な感覚を味わうと同時に、数時間という時間が予想以上に濃く、「等身大、ありのまま」の自分を表現できる友人の重要性を改めて実感する。人の本質を知り、自分が「自分らしく」いられる空間は極めて重要である。ともかく一人でも多くの方々に受講していただけるよう2009年は努力しようと決意する。

大晦日まであと10日を切る。年々時間のスピードが増しているようだ。2008年もあっという間の日々。振り返りの感想はまた後日に譲るが、この1年もまたいろいろなことをまた学ばせていただいた。特に再確認したことは「不安」について。人間の精神の奥底に根づくもの。誰一人としておそらく逃れられない一種の恐怖。そのお陰で人は自分と闘い、ある時は問題を引き起こしてしまう。ただし、そのことを客観的に認識することで解放することは可能。「不安」から完全に解き放つことは無理だが、少なくとも「不安な状態」が認識できるだけで状況は一変する。気持ちを他人に向け、人が喜んでくれるよう「行い」を正していけばきっと物事は好転するだろう。人から奪うのではなく、共感し、共有していくことで「道」は開けるのである。
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つい先日も書いたが、世の中、精神的に参っている人が多い。ほとんど表沙汰にならないだけで、大企業のどこでも「病」で休職状態におかれている職員は相当数に及ぶという。真面目な人に限ってそうなってしまいがち。ひとりで抱え込んでしまうのでなく、時には気を抜いて「適当に」やる習慣をもたないとだめ。「まぁ、いいじゃないか」という鷹揚な態度が必要。

「心が疲れた人はヴァネツィアに行くのがいい。それが叶わぬのなら、この本をゆっくり読むのがいい。毎晩少しずつ服用して、心が倦怠の波に揺れるのに任せる。数日後には、疲れが心地よいものに思えてくるだろう。」という池澤夏樹氏による推薦文入りの帯。
10年以上前に書店で見かけ、気になって購入していたもの。
『ヴェネツィア~水の迷宮の夢』(ヨシフ・ブロツキー著、金関寿夫訳)

山中湖畔にて

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早朝5:30起床。まだ真っ暗な中、冷たい空気に頭もしっかり冴え渡り、「フェザント山中湖」近くにある山中湖温泉「紅富士の湯」に出掛ける。「紅富士」の名は、早朝の太陽が地平線上にあり、冬の富士の真っ白い雪山に映えて、紅色に照らすところに因んでいるのだという。確かに午前7:00前、露天風呂から眺める富士山は薄紅色に染まった(温泉の中ゆえその写真は撮れなかったが)。何とも美しい。

かれこれ20年近くセミナーの開催のため河口湖方面には毎週のように通っていた。しかし、同じ富士五湖とはいえ「山中湖」はほぼ初めてといっていいくらい。観光地化され、人間臭い「河口湖」と違い、不思議に空気も汚れず、気も落ち着いているこの湖は冬場こそお奨めスポットなのではないかと思うほどだ。人が集まるところにビジネスが生まれ、一見繁栄するかのように錯覚するが、それによって失うものも大きい。飾り立てれば立てるほど人は興味をもって集まる。しかし、度が過ぎると、本質を見失い、そのものが「そのものらしさ」を無くしてゆく。「何か大事なこと」がこういう汚れない自然の中にあるのだと再確認する。
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ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61。聴覚に問題を来し始めたベートーヴェンが「内なる愛」を表明した音楽。高校生の時、アンネ=ゾフィー・ムターがカラヤン&ベルリン・フィルをバックに録音したレコードで擦り切れるほど聴いたことが懐かしく思い出される。この音盤、今となっては一般にはさほど顧みられることがないように思うが、僕の場合脳みそにあまりに深く刷り込まれているためどの音盤をもってしても最後はこのムター盤に行き着いてしまう。反復された習慣とは恐るべし。

1989年、サントリーホールでチョン・キョン=ファの実演を聴いた。途轍もない名演奏。この協奏曲でこれほど心が震えた経験は後にも先にもない。その後、テンシュテットの指揮でキョンファが録音した音盤がリリースされ手に入れた。素晴らしい。しかし、残念ながらあの生演奏には明らかに及ばない。そんな記憶を辿りながら、久しぶりに珍しい音盤を取り出す。

愛する人たちへ・・・

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朝日新聞夕刊に掲載された「ネット時代の音楽表現とは」と題する坂本龍一のインタビュー記事。

「ネットでは圧倒的多数に視聴され話題にされないといけない。ブログでいえば、とにかくウケないといけない。やがてアクセス数をかせぐことが目的になってしまう。・・・ネットのお陰で、僕はたくさんの人に聞いてもらうことが音楽を作る動機にならないことが逆にわかった。アマチュア時代に戻ったような新鮮な感覚だ。顔の見えない、何を面白がるのかわからない大量のユーザーのために音楽を作る必要性を感じない。作りたい音楽があるからやっている。・・・」

なるほどクリエイターらしい考え。坂本龍一のように成功した人だから言える。確かに理想的だ。しかし、「相手」もなくただ「作りたいから作る」というのではあまりにも空しい。ましてや、見てくれる人聴いてくれる人を持たない人はそこまでは達観できない。そこで、もう一度よく読んでみると、

「大量のユーザー」に対してではなく、たとえ少数であろうと「自分の作品を愛してくれる、あるいは本当に喜んでくれる人」に対して「提供したい」何か(坂本の場合は音楽)があるから動く(作る、やる)のである、と言いたいのだとわかる。

自分らしくあるために

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「自分らしく」生きること、「自分らしく」仕事をすること、「自分らしく」楽しむこと。誰もがそうありたいと願う。「自分らしく」というのは人間が生まれながらにもつ通奏低音のように鳴り響く欲求。

企業の大小を問わず「うつ病」で休職したり、離職せざるを得ない人が多いという。表沙汰にはならない数字ゆえ、どこの企業でどれくらいの「うつ病」患者が出ているかどうかは不明だが、マスコミで報道されるのなどは氷山の一角に過ぎないだろう。
ストレス・マネジメントといっても「対症療法」的なものがほとんどで、抜本的な解決に至るものは少ない。そもそも社会システムそのものを一旦ゼロに戻して再生しなければならないほど、日本国のしくみ、否、というより「資本主義」のしくみが行き着くところまで行ってしまっており、誰もが目先のことでいっぱいいっぱいで、全体を正しく見ることができなくなっていることが大問題。それに押し潰されないように各々がせめて自分自身の精神管理はしっかりとしなきゃいけない。ひょっとすると「お金」を儲けることだけを基準にして、稼いだ金額で企業なり人なりを評価するというシステムはもうそろそろ終わりにしてもいいのかもしれない。

ぶれない自分軸

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気がつけばあと2週間で2008年も終わる。いわゆるサラリーマン業から足を洗ってまる2年が経過しようとしている。この間、諸事情により大々的にセミナーを開催することは憚られ、ほぼ口コミにだけ頼るという状態で、2ヶ月に1度くらいのペース、しかも1回につき数人という規模で、試験的にやらせていただけたことはとても幸運なことであった。
とにかく、「新しい考え方」、「他にない考え方」を見つけたくて、1回1回のセミナーに関して全力投球した結果、これだというひとつ大きな「真理」を見つけられたことが収穫。

人は皆誰でも環境に左右される。そして誰もが長年受けてきた教育によってある意味「洗脳」される。良い意味でも悪い意味でも、だ。悪い方の例を挙げてみると、「人の評価を気にして生きる」人になってしまうということ。あるいは、人と比べて上か下かでしか自己評価を下せない自分になってしまうと言ってもよいかもしれない。18歳までは勉強ができる子は「優等生」の肩書きをいただき、意気揚々と学校社会を闊歩する。一方、できない子は劣等感の塊となり、挙句は後々までそのコンプレックスが生きていく上での「障害」となる。しかしながら、それは「学校」というシステムの中に限ってのこと。学校を卒業してしまうと、「優等生」であろうと「劣等性」であろうと、比較して自己を評価する癖だけが残ってしまうのだ。結局、他者評価に頼るばかりで自己評価できず、「自分に自信が持てない人」になってしまいかねない。大なり小なり今の日本人はこういう状態に陥っている人が多いはず。

ブラームス~孤独な愛

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クラシック音楽を聴き始めた頃から楽器を弾けるようになりたいと思っていた。ただ「思っていた」だけで、具体的に何かを始めたわけではない。しいていうなら、高校生頃に自宅にあったアップライトで、モーツァルトのソナタの楽譜を買ってきて、K.283の第1楽章の最初の部分やK.331の第1楽章変奏曲の主題部を独学でポロポロと鳴らしていた程度。もちろん指使いの重要性など知る由もなく、バックハウスのレコードで曲を覚えながら、適当にやっていた。
その後、大学入学と同時に上京してからは、当然ピアノを触ることも全くなくなり、社会人になって以降は、楽器を習う暇などなく、いずれ引退した時、老後の楽しみの一つとしてとっておこうと思っていた。僕がクラシック音楽を愛好していると聞き、たまに「楽器はやらないんですか?」などと聞かれることもあったが、そのときには常にそう答えるようにしていた。
brahms_gould.jpg日中の外気は、雪でも降るのではないかという凍えるほど。
世の中はクリスマス一色。ただ、例年とは明らかに違って多少盛り上がりに欠けるよう。とはいえ、新宿駅界隈は別。「景気の後退感」などどこ吹く風で、呆れるばかりの人、人、人。人疲れしてしまいそう。

昨日、佐治先生が講演の中で、ボイジャーに搭載したLPには、グレン・グールドの弾くJ.S.バッハ、それも平均律クラヴィーア曲集第1巻から「前奏曲とフーガ第1番ハ長調BWV846」を選んで入れたというお話をしてくださった。この音楽はグノー編曲の「アヴェ・マリア」として人口に膾炙しているが、先生曰く「宇宙の普遍的言語である数学と、脳の一番深いところにある聴覚とに関わる音楽を合体させることを意図して選んだ」とのこと。しかも、毎朝起きぬけにこの楽曲をピアノで弾くと、その日の自分の心身のコンディションもわかるのだと。来年1月には、この前奏曲を数学的に研究、解釈した自著が上梓されるということなので今から楽しみだ。

月の光

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10年来の友人たちと集い、池袋でしこたま呑んだ。人は経験の数に比例して成長する。学習することにより皆「大人」になってゆく。それでも、誰も何も変らない。一人一人あるがまま不変で、未来永劫変るものでない。その人はその人にしかなりえないし、その人のままで良いのである・・・。本日は満月。宇宙の神秘に浸りつつ、「月」の音楽に身を寄せる。

午後、大久保のルーテル教会にてNPO法人東京自由大学主催のレクチャー「アートシーン21パート6」。『夢みる宇宙と音楽と』-宇宙に学ぶ人生の歩き方-と題する、佐治晴夫先生のお話を聴いてきた。先生が独学で学んだというパイプ・オルガンの演奏を交えながら、宇宙が「一つ」であり、誰もがつながっているのだということを物理学、数学などの知識をフル活用して教えてくださる。その約3時間に及ぶ講演の後半に佐治先生が見せてくださった1枚の写真。1977年に打ち上げられた惑星探査機ボイジャーがはるか65億 km離れた位置から1990年2月15日に撮影した「太陽、金星、そして地球の姿」である。姿といっても、映っている地球はいわば針の穴のような「点」にしか見えない。無限の宇宙の中のこの小さな点の中に間違いなく我々人類が存在しているのだという証。
そして、先生がNASAに勤務されている頃、同僚だったカール・セーガン博士が癌で亡くなる前にこの地球の写真を皆に見せて、語ってくれたという最後の言葉。

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昨日の「みやらび太鼓」の公演中、激しい打楽器の音の中で、意識が遠のいていく瞬間が多々あった。そういう茫漠とした意識の中で見ていた映像は、1995年10月にダブル・トリオ編成で再々結成したKing Crimsonが来日し、中野サンプラザでコンサートを開いたときのこと。確か、このときの映像はLD&DVD化され一般発売されていると思う。もちろん、ライブ初体験のRedやLark's Tangues in Aspic Part2は泣く子も黙る悶絶ものの演奏で、長年ライブに触れてみたいと願っていた僕にとってとても感動的なパフォーマンスだったが、中で、Bill BruffordとAdrian Brewがパーカッション・インプロヴィゼーションを繰り広げた(それはコンサート中の余興のような位置づけだと思うのだが)、その光景がまざまざと蘇ってきたのだ。
クラシックにしてもジャズにしても、そしてロック音楽にしても、ジャンルの壁を越えて「打楽器」が発するエネルギーはなぜこうも人の心を揺すぶるのか・・・。その時のたった二人でのパフォーマンスはともかくかっこよかった。

鼓動

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人の胸に耳をあて、静かに耳を澄ますと、「トントントン」という心臓の音が聴こえる。他人の「鼓動」を聴いたことがあるだろうか?誰一人として同じ響きをもっていない。十人十色、それぞれがそれぞれのリズムで「生きて」いる。心臓が動いていることも肺が動いていることも、胃腸が動くことも、人間の意思とは別の意識に依っている。そんなことは普段考えもしない。気にもしない。とはいえ、間違いなく「何か」の意思によって人は皆生かされている。だから、自分自身が「何のために」生まれてきたのかを知ることはとても大事なこと。

青山の「草月ホール」で開催された川田公子太鼓の世界39回「鼓鏡」を観に行った。いわゆる沖縄太鼓の一種である「みやらび太鼓」によるパフォーマンス。何世紀も何千年も前の地球上で意味深く奏されたであろう打楽器の音は、人間の知覚を刺激し、遠い世界に誘ってくれる。正味1時間少しの公演だったのだが、珍しくもうつらうつらし、半分くらいは「夢の世界」に入ってしまっていた(要は心地よく眠ってしまったということ)。単調で一定のリズム。それでいてはらわたに響く音。

ありのまま

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「ワークスタート第2回支援者フォーラム」に参加した。わずか1時間半ばかりの短い時間だったが、大勢の方との交流の和が拡がり、相応の得るものがあったように思う。そもそも「ワークスタート支援プログラム」とは、働く意欲があるにもかかわらず、「自信がない」などの理由で、一歩踏み出せない若者を、就職活動へとつなげる序奏の役割を果たす講座だという。単にGCDF-Japanの 継続学習の意味合いのみで何も考えずに参加したゆえ、ほとんど予備知識なしだったのだが、若者の周辺で起こっている「就職事情」の一端を垣間見ることがで き、やはり教育システムの根本から改革していかない限りニ進も三進もいかないところまで来ているのではないかと痛感した。
今日のフォーラムでの支援事例の幾つかを耳にして、結局どんなプログラムをもってしても、多くの場合対症療法的なものに過ぎず、根本的な解決には程遠いように思った。就労に関して悩む若者個人をどれだけフォローしようと、親を含む周りについても同様のフォローが必要で、人間というのは誰もが「関係」の中で存在し、良い意味でも悪い意味でもお互いに影響しあっているのだということを再確認 した。
いかに「関係構築」をスムーズに、そして深くできるコミュニケーション能力を熟成させるか、そして「ありのまま」をいかに受け容れるか、それが最大のポイントだろう。

午後は、渋谷のスタジオKASAMOTOにて「ママと赤ちゃんのための本格クラシックコンサート」~ヴァイオリンとピアノ、赤ちゃんと聴く本物の響き~の裏方(ヴァイオリニスト・高橋卓也氏の伴奏を愛知とし子が受け持ったため)。
アメージンググレイスやトゥーランドット、ジュピターなど、誰もが知る旋律を室内楽風にアレンジしたとても穏かでそれでいて迫力のある演奏会だった。昨晩の激しい雨などどこ吹く風、信じられないような快晴で、大勢のお客様にご来場いただき、喜んでいただけたようだ。

第2章:再生

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鬱蒼と樹々の茂る森に一条の光が差し、得もいわれぬ不思議なエネルギーを感じる夢を見た。否、それは夢ではなく、起きがけの瞑想中に見たいわば白昼夢に似た幻覚だったのかもしれない。
世の中の全てのものは儚い。「人」の「夢」と書いて「儚」だ。あらゆるものが意思とは別のところで、そして時とともに一瞬にして泡沫と化す。
「過去」にとらわれることなかれ。とどのつまり、人は誰も何事も「所有」することはできない。物を持ち、とらわれればとらわれるほど「重荷」になり、挙句の果て「執着」となってゆく。
ただ「今」を生きること、そして後ろを振り返らずに前に進むこと。

555 日分のブログのデータベースが吹っ飛んだ。以前の自分なら捨てきれない「拘り」に悶々として、居ても立ってもいられない状態に陥ったことだろう。大袈裟に言えば、自らが生み出した可愛い、可愛い「子ども」のようなものだったのだから。とはいえ、過去は過去。思い出に耽って安穏としている暇はない。
いずれにせよ、再起の意を込めて、そして新たな「第2章」のスタートという気持ちでサイトをリニューアルする。今日、2008年12月9日(火)は「再生」の日とすることにしよう。

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