深夜にショパンのノクターンに耽る

僕の音盤人生の最初期に触れたもののひとつにルービンシュタインによるショパンのノクターン全集がある。2枚組で、第1集に第1番変ロ短調作品9-1から第10番変イ長調作品32-2まで、第2集には第11番ト短調作品37-1から第19番ホ短調作品72-1(遺作)までが収録されている(有名な第20番は含まれない)。久しぶりに聴いてみたけれど、実に良い。
偶然なのかどうなのか、第1集と第2集には音楽的に随分差があるように僕には聴こえる。それはルービンシュタインの技術や解釈云々ではない。そもそもショパンの音楽そのものの「深み」が1集と2集とでは相当に違うということである。
そう、作品32と作品37の間の音楽的次元が明らかに違っているということだ(それはドビュッシーの前奏曲集における第1巻と第2巻の差と相似形。それくらいに音楽の質が異なる)。

僕は若い頃、第1集ばかり聴いて第2集は根気が持たず、途中で投げ出してしまうことが多かった(というか眠くなって途中で寝てしまっていたのかもしれないし)。今から考えると、夜想曲という比較的軽めのフォルムを用いながら、ショパンが後年になるほどとても深い(深過ぎる)音楽を創出しているため、その形式に収まり切らなかったから若輩者の僕には受容し切れなかったんだと思う。

ちなみに、作品32が書かれたのが1836~37年、ジョルジュ・サンドと知り合うもまだ正式に付き合っていたかどうか、そんな時期。一方の作品37は1838~39年の作。当然、サンドの数度にわたるしつこい猛アタックに負けて(?)交際が始まり、いわゆる「マジョルカ島への逃避行」と重なる、2人の幸福な日々の中でも絶頂の時のものと想像される。

余計なお世話だろうけど、ショパンはサンドといて本当に幸せだったのだろうか?
後期のノクターンには、無邪気な愉悦というより慟哭の哀しみが反映され、沈潜してゆく哲学的思考にも似た音調が随所に現れる(それは10代の若者には理解し難いもののように思われる)が、そのことがそういう疑問を僕に持たせる。
それに、どんな熱愛も必ずいつか冷める時が来るもので、少なくとも彼らの書簡類や伝記などを読む限りにおいてわずか数年で関係は随分と冷えたものになっていたことがわかるということもその考えを後押しする(それはドビュッシーとエンマ・バルダックの関係においてもそう)。それがゆえに音楽的深度は高くなるのだろうけど。
いすれにせよ作曲家の恋物語を想像するのは興味深い。ただし、真相は本人たちにしかわからない・・・。

ショパン:ノクターン全集Ⅱ(第11番~第19番)
アルトゥール・ルービンシュタイン(ピアノ)(1965.8.30-9.2録音)

ところで、ルービンシュタインは第20番嬰ハ短調をどうして全集から省いたのだろう(1938年になって発見された第21番は別にして)?第20番はもっと若い頃の作品(1830年)ゆえ異質なのは当然で、ここに収録されなかったことでノクターン全集として見事な統一感が生れているのだけれど、それにしても不思議なのは、1827年作の第19番は収録されているということ。この曲の音楽の沈潜してゆく様、そして雰囲気がまるで後期のものに近いからなのかな・・・。どうなんだろう?
ここまで考えてふと思った。そうか、第20番はもともとノクターンとして作曲されたものじゃないからだ・・・。名曲解説ライブラリーによるとこの曲を献呈された姉のルドヴィカが、ショパンの未出版作品のカタログを作った折、「1830年にウィーンから私へ送られたレント、夜想曲風のレント」と記したことでそもそもノクターンと呼ばれるようになったということ。何だ、当然、ルービンシュタインはそのことを熟知していてあえてノクターンとして録音する必要はないと判断した、ただそれだけの理由なんだろう・・・。

それにしても、最後にこの遺作のノクターンが収められていたらば、僕のこの全集への印象はちょっと違ったものになっていたかも。


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む