変ホ長調とハ短調

“Celebration Day”が届いた。今日のところは観たり聴いたりしないで大人しく過ごそうと思っていたのだけれど、ちょっとだけ、とつい我慢ならずBlu-rayを視聴してみた。
やばい・・・、やば過ぎる。前評判が相当高かったので当然期待していたが、クオリティの高さは半端でない。機材も進化しているだろうから30数年前のライヴより質が高いのではないかと思わせるほど。それに、できるだけ即興パートを削ぎ落して、スタジオ録音を忠実に再現しようとする姿勢が見られて、涙が出てきた。気がついたら2時間・・・。食事を摂るのも忘れて、正座していたくらい。このアルバム、CDも含めてじっくり聴き込んでからあらためて記事にしようと思う。

さて、昨日の続きを少々。
楽理を勉強された方からすると当然のことなのだろうけど、たまたま「五度圏(ウィキペディアより)」を眺めていて、変ホ長調とハ短調が表と裏(外と内)だということに気がついた。なるほど、おそらくベートーヴェン本人は意識せずあの当時変ホ長調、あるいはハ短調の作品を多く書いたのだろう(と想像した)。いや、どちらかというと「上」に書かされたと言った方が良いかも。
合唱幻想曲の詩の内容を具に確認してみると、その精神が第9交響曲につながっていることは一目瞭然だし、ここでは「光」というものが大きなテーマになっていることも理解できる。さらに、「光」は「闇」があっての存在ゆえ、その2つがやっぱり「一体」であることを謳っているように思われるし、「静寂」と「至福」が「光」を生み出すとも言っていることも意味深い。
ベートーヴェンにとって変ホ長調の作品とハ短調の作品はいわば双生児のようなもの。となると、「エロイカ」交響曲と「運命」交響曲は、実に同じテーマで書かれていることになる。第5交響曲は「闘争(競争)から勝利(調和)へ」というベートーヴェンの有名なモティーフに基づいて書かれているといわれるが、「エロイカ」で闘争を、「運命」で勝利を(結果的に)表現したとも考えられるのでは?しかも、「勝利」は一般的に想像される「相手より優位に立つ」という意味での「勝つ」ではなく、すべてが合一する「調和」という意味での「勝利」(要は真の意味でのWin-Win)を指しているのだろうと考えた。

ベートーヴェンを繙くことが俄然楽しくなってきた。ということで、今宵は異形のベートーヴェンを。

ハイドン:交響曲第88番ト長調
ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調作品67
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ヘッセン放送交響楽団(1962.3.20Live)

ハイドンはモーツァルトに誘われてフリーメイスンに入会した。ハイドンにもフリーメイスンのための作品は数多くあるそうだが、まだまだ研究不足。いわゆるパリ交響曲とザロモン・セットは明らかにフリーメイスンのために書かれたもののようだけれど、第88番はどうなんだろう?
この作品、かつての巨匠たちがこぞって採り上げるが、なかなかの名曲。
それにしても、最晩年のクナッパーツブッシュの重い足取りの音楽作りはぶっ飛び(笑)。
微動だにしないという表現は正しいのだが、それよりほとんど「遊んでいる」という印象。
ベートーヴェンについても然り。あまりに聴き慣れた第5交響曲がとても新鮮に響く。音にひとつひとつを簡単に手放さない。溜めて、溜めて、溜めて・・・、ようやく解放させるという感じ。そう、音符を大切に扱っているとでも言おうか。

「エロイカ」の意志が外を向くのに対し、「運命」は内を向く。
ただし、いずれもその「精神」は同じだということ。
明日はクナの「エロイカ」を聴いてみよう。


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