それこそ僕はリッカルド・ムーティの指揮に感動したことがなかった。
昔、ウィーン国立歌劇場で「フィガロの結婚」を観た時もそう。音盤でも、彼のモーツァルトやブルックナーなど一向に心を動かされなかった。
でも、いつぞやハイドンの「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」を聴いて(ベルリン・フィルとのスタジオ録音とウィーン・フィルとのザルツブルク音楽祭ライブがあるが、2種とも)、すごく感激した。これはもちろん楽曲が優れていることに依るのだけれど、ムーティがモーツァルトを振る時の心構えと「何か」が違うように思われた。
同じくルイジ・ケルビーニのミサ曲等を収めたボックス・セットについて、いずれの作品も新鮮な喜びと敬虔な祈りに満ち、あのムーティが音楽を創っているんだとすっかり忘れてしまうほどインパクトが大きい。
ケルビーニはベートーヴェンが尊敬した作曲家だ。現代でこそ舞台にかかることはほとんどない忘れられた音楽家に近いが、あの宗教音楽集は絶賛に値する。そして、ハイドンもモーツァルトも、ベートーヴェンもケルビーニも同時代を生きた作曲家たちだけれど、彼が当時最も人気の高かった人だということが、何ともポピュラーでありながら斬新さを失わない音楽を聴いて確信された(ハ短調レクイエムの「怒りの日」では銅鑼が使用されているけど、1816年当時この楽器を使った人って他にいるのだろうか)。
まずは、ケルビーニが1816年、ルイ16世の追悼式典のために作曲したハ短調のレクイエム。ベートーヴェンをして「もしレクイエムを書けと言われたら、ケルビーニの曲だけを手本にしただろう」と言わしめた傑作。ジュゼッペ・ヴェルディの同曲の先取りのような崇高さと革新の同居。しかも、このレクイエムには当時としては珍しく独唱が入っていない。そのことによって一種「けばけばしさ」(?)が排除されているのだからそこがまた斬新(いかにもその抹香臭さがまた良い)。
それと歌劇の序曲2つ。何と「エリザ」は「フィデリオ」さながらの救出劇。もちろん「レオノーレ(フィデリオ)」以前ゆえベートーヴェンが多少の参考にしただろうことはあり得る。あと、カラスの歌う「メデア」からのアリア!!当たり役ゆえの堂々たる絶唱。
実にルイジ・ケルビーニもフリーメイスン。もうしばらくこの時代の音楽ブームが続きそうだ(笑)。
ところで、モーツァルトという作曲家はやっぱり特殊なんだと思う。人間離れしているというか(間違いなく宇宙人)。だから、演奏者は手こずるし、それゆえ絶対的名演奏というものになかなか出くわさない。グールドがいっそのこと壊してしまえと(笑)自暴自棄になったのもわからないでもない。
同時代の他の音楽家たちと「何が」違うのか、きちんとキャッチしてうまく説明は今の僕にはできないが、ここ数日の一連の音盤試聴を通してみて、そんなような結論に至った。
このことについてもしばらく頭の隅っこに置いておくことにする。
[…] に、ベートーヴェンの葬儀にあたって2回の追悼ミサが開かれたそうだが、1回目にはモーツァルトの「レクイエム」が、2回目にはケルビーニの「レクイエムハ短調」が演奏されたという。 […]