新日本フィル第517回定期演奏会 ハーディングのマーラー

mahler_7_harding_20131108なるほど、人生に意味などないんだ。いや、この言い方は正しくない。各々が意味付けすることにより初めて人生が人生らしくなるというか。久しぶりにマーラーを聴いて思ったこと。ダニエル・ハーディングの解釈は極めてメリハリに富んでいて、とてもわかりやすい。第7交響曲というと、最も演奏頻度の低い、ある観点からすると人気のない作品だといわれるが、僕は昔から好きだった。ところが、実演に触れる機会があの頃ほとんどなかった。そうこうするうちにいわゆるマーラー熱は冷め、いつの間にかほとんど意識的には聴くことがなくなったものだから結局機会を逸し、実に今日が初めての生体験。

単刀直入に言おう。昔からこの作品を解釈して様々な論(夜と昼の対比であるとか、その割に終楽章が唐突過ぎアンバランスだとか)が専門家の間で戦わされてきたけれど、僕が受けた印象では「音楽そのものに深い意味はまったくない」ということ。すなわち、その瞬間の音、音楽に直接に触れることだけが正しい聴き方であろうと。強いて言うなら、中間のスケルツォ楽章がご存知のように「鏡」の役割をしているということ、しかもその「鏡」はあくまで道化であり、「仮」、すなわち「幻想」を映すものであるということ。
何と「道化」がそれぞれの(第2楽章&第4楽章)「夜の歌」を映すのである。さらに、この3つの楽章が核となり、死をテーマとする第1楽章と「生の謳歌」を表す終楽章にサンドイッチされる。あえてそういう形だと言ってしまうこともできよう。しかし、僕はそのこと自体ナンセンスであると悟る。

新日本フィルハーモニー交響楽団
トリフォニー・シリーズ
第517回定期演奏会
2013年11月8日(金)19:15開演
マーラー:交響曲第7番ホ短調「夜の歌」
崔文洙(コンサートマスター)
ダニエル・ハーディング指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

「影のように」と指定される第3楽章が肝。数あるマーラーのスケルツォの中でも出色の音楽。限りなくグロテスクでありながら実に生命力に溢れる。なのに「影のように」だ。このことはまさにこの世が幻想であることを暗示する。ハーディングの音楽も明快。続く第4楽章アンダンテ・アモローソはマーラーらしい可憐な音楽だ。この音楽こそ実演でないと絶対にわかりえない。ともすると轟音に埋もれてしまうギターやマンドリンの音をこれほどはっきりと捉えられたことで一層僕は理解した。生きることの儚さと、浮世を彷徨いながら大きいものも小さいものも、生きとし生けるすべてのものに愛のメッセージを送る、そんな作曲者の姿を垣間見るよう。
さて、終楽章ロンド。死が始まりであり、生が終わりであることを指し示す第7交響曲の締め括り。これが「昼」を表す音楽だって?楽想があまりに明るいからといってそれは短絡的過ぎる。
ここには何もない。ただ、いくつもの音符が散りばめられ、豪壮な音楽と静謐な音楽が錯綜し、しかも美しいメロディやピエロのような旋律も縦横に現れ楽章を形成するというだけだ。

それにしても第1楽章のテーマを吹く齋藤充さんのテノール・ホルンは巧かった。実に見事な音楽。終演後の万雷の拍手喝采がそれを物語る。
久しぶりにマーラーを聴いて思った。音楽の意図は作曲者にしかわからぬ。難しいことを考えて、こねくり回して、勝手に様々解釈するのは無謀なこと。ひょっとすると思想などないのかもしれぬ。ここには人間界のすべて(あくまで人間界。次の第8交響曲で宇宙に飛ぶ)がある。素晴らしい作品だとやっぱり思う。

 


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