宇野功芳編曲女声版「戴冠ミサ曲」を聴いて思ふ

mozart_coronation_missa_koho_uno「戴冠ミサ曲」の原曲はソプラノ、アルト、テノール、バスの4人の独唱者と混声四部合唱によるが、このCDでは宇野功芳がソプラノ、メゾ・ソプラノ、アルトの3人の独唱者と女声三部合唱のためにアレンジした版が用いられている。これは女声だけのコーラス・パートの純粋なひびきが、この曲にぴったりだからで、もちろん世界でも唯一の演奏である。
(ライナーノートより)

モーツァルトの音楽に手を加えるなどとは言語道断というなかれ。実に美しい。宇野功芳さんのオーケストラ演奏は、例えばベートーヴェンなどデフォルメの極致で、繰り返し何度も聴ける代物ではないが、ブルックナーの第8交響曲と並びモーツァルトの女声版「戴冠ミサ曲」は表現の過剰な逸脱がなく、というより極めて順当で深い解釈がなされており、いずれも繰り返し聴くに値する名演奏であると僕は思う。
「戴冠ミサ曲」の宇野編曲版は独唱合唱とも3声というのが肝なのかも。だいぶ前に議論したのを思い出した。ピアノ三重奏が求心力より遠心力が働きがちの室内楽で(だからこそ個性の強い名手3人の臨時編成で名演奏が成立しやすい)、一方弦楽四重奏曲などは逆に求心力命で、よって臨時編成での名演は困難という話。こういうことが合唱作品においても適応されるのかどうなのか僕にはわからないけれど、音楽に広がりが生れて、とても聴きやすくなっているように直感的に思うのだ。さらに混声でなく女声に純化したというのも何よりの技・・・。ともかく宇野さんの見事なアレンジが音楽の味わいを一層深めてくれるのである。

モーツァルト:
・戴冠ミサ曲ハ長調K.317(女声版)
長島伸子(ソプラノ)
渡辺康子(メゾ・ソプラノ)
小林美代子(アルト)
田中由美子(オルガン)
日本女声合唱団(1988.8.30-31録音)
・「女より生まれし者のうちにて」K.27
・「天主のみ母なる聖マリアよ」K.273
・ミサ・ブレヴィス変ロ長調K.275
須崎由紀子(ソプラノ)
小川明子(アルト)
辻秀幸(テノール)
大門康彦(バリトン)
辻正行指揮TCF合唱団(1990.6.24Live)
宇野功芳指揮新星日本交響楽団

キリエ冒頭の引き締まった音響はベートーヴェンを髣髴とさせる。それに何より奇を衒わず、真正面からモーツァルトに対峙し、すべてがモーツァルトへの愛に溢れる。本当にこの方はモーツァルトがお好きなんだと「ミサ・ブレヴィス」など他の実況録音(1990年サントリーホール)を聴きながら感心する。
特に、マンハイム、パリ旅行の無事を祈る奉納ミサとして生み出されたであろう「ミサ・ブレヴィス」の天上の美しさといったら・・・。

 


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6 COMMENTS

雅之

音盤の大半を処分し、もはや多くの音盤に何の執着も未練も無くなったにもかかわらず、本屋で「レコード芸術」を立ち読みし、3年ぶりくらいに買ってしまいました。ほとんどの記事が私にとって興味のないものでしたが、ただただ現在の宇野さんの境地が非常に興味深かったので・・・。

・・・・・・85歳も半ばに達したぼくの死生観について書いてみたい。先日、さる小説を読んだら、主人公の男の子が5歳のときから死の暗黒におびえる話が書いてあった。死んだら二度と生まれない。そのことに日夜おびえるのだ。
 
 ぼくのおびえはもっと遅く、小学校2年のときから始まった。ぼくが恐ろしかったのは死はもちろんだが、死後につづく永遠の闇だった。この話をするとみな笑うが、ぼくからすれば永遠というものをあまりに軽く見すぎているのではあるまいか。永遠というのは、深く考えれば考えるほど、とてつもないものなのだ。永遠は未来だけではない。過去にもある。宇宙空間に始まりはないわけだから、われわれはすでに永遠を経験しているのだ。始まりがない、というのは終わりがない、ということよりもこわい。しかし、それはすでに過ぎ去ってしまったこと。これからの永遠はこれから経験するのだ。現在の宇宙が消滅した後のことを、ぼくはしばしば考える。想像の中で500億年後、1000億年後、5000億年後と想像してみる。その長さは想像を絶し、気が遠くなるが、永遠はまだ始まったばかりで・・・・・・、というより何千億年の何千億倍の時間が経とうと、永遠はほんの僅かも縮まっていないのだ。

 まあ、そんなことを考えつつ85年を生きて来たわけだが、今では武者小路実篤の言葉「一生懸命生きた後、永遠の休息というのも悪くない」が肯定できるようになった。昔は何と楽天的な考え、と思っていたのだが。朝比奈隆は「死ぬのは仕方がないです。いつまでも生きているわけにはゆかないんですから」とよく語っていたが、これは自分を納得させる言葉のように聞こえた。しかし、死というものをずばり言い当てた名言でもある。いつまでも生きているわけにはゆかない。まさにその通りではないか。

 ブルーノ・ワルターは人生を「われわれの束の間の訪問」と書き、死を「永遠への扉」といっている。彼にとって、永遠こそ光り輝く目的地なのだろう。

 しかし、ぼくはそんな風には考えない。宗教が嫌いな理由はそこにある。死後の生命、永遠の生命などと言い出すから、いろいろ難しいこと(煩悩)が起こる。詩人、尾崎喜八は、死は無である、といっていた。これこそ真理だ。ぼくはその考えをさらに押し進める。自分の生を肯定するから死や永遠がこわくなるのだ。生そのものを否定してしまったら、これは楽だ。自分は生まれなかった。これがいちばん幸せなのだ。いろいろなことを知れば知るほど不幸になる。自分が生まれなかったことにしてしまえば、生も死も永遠もない。こんな楽なことはない。

 臨死体験について語る人がおり、人間の魂は存在するという。あるいは最近読んだ佐藤愛子著『私の遺言』(新潮社)には、著者がいろいろな霊に悩まされる話が出てくる。動物霊もいる。天照大神が天上の世界にいる話まで出てくる。天照大神はともかく、ぼくは人間の霊を否定するものではない。

 しかし、ここからが大切なところなのだが、死後に霊や魂が残ったにしても、それは人間が地球に存在している間のことではないのか。長く考えても地球が太陽に呑み込まれて消滅するまで。もっと長く引きのばしても、現在の宇宙が存在する間のことであろう。やがて新しい宇宙が遠い遠い未来に出現するのか、あるいは永遠に出現しないのか。いずれにせよ、そんな別の宇宙に、あるいはすべて消滅した無限の闇の中で、われわれの霊や魂が生きているなど、考えるほうがおかしい。それでも霊魂として残りたいのか。残ったら一大事だ。なにしろ、何もない闇の空間の中で永遠に漂っていなければならないのだ。永遠というのは、いつまでも限りなくつづく、とてつもない、人智のはるかに及ばぬものであって、それでも無限の時間、霊魂として存在したいのか! 信じられない話だ。・・・・・・レコード芸術 2015年12月号 「連載 宇野功芳の見たり、聞いたり 最終回」より

私なら、「今」を大切に生きるために、「自分は生まれなかった。これがいちばん幸せなのだ」と考えるよりも、むしろ、ニーチェが唱えた「およそ到達しうる最高の肯定の形式」、永劫回帰を信じたいところですが・・・。

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岡本 浩和

>雅之様
「レコ芸」を買わなくなって3,4年経ちますが、立ち読みすらしないのでこの記事についても知りませんでした。
ありがとうございます。
それにしてもいろいろな考え方があるのだなと思います。
とはいえ、僕自身は宗教は否定しませんし、信仰となるとそれはあって当然のことと考えております。
例えば、音楽も原点はそれこそ信仰であり、宗教であるわけですから、それはもう否定できないもので、宇野さんが「宗教が嫌い」とおっしゃるのは何らかの体験にまつわる感情論なのかなとも思ったりします。

なるほど、彼の批評はともかくとしても演奏がどこか恣意的で、思考によって作られたものであり、不自然な装いを持っている理由がこの言からわかりました。

ちなみに僕自身は、生も死も一体でどちらも肯定的なものだと捉えています。
宇野さんは否定されるでしょうが、魂は永遠で、今のこの姿は仮のもので、それは来世についても変わらないことだと思うのです。

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雅之

>なるほど、彼の批評はともかくとしても演奏がどこか恣意的で、思考によって作られたものであり、不自然な装いを持っている理由がこの言からわかりました。

宇野さんは、大昔から「バッハ臭さが嫌いだ」とか言ってましたからね。この本音は昔から不変だと思いますよ。

その宗教嫌いの宇野さんが、朝比奈隆&大阪フィルのブルックナー:第7交響曲 聖フロリアン教会ライヴを最高に評価して、第2楽章と第3楽章の間に教会の午後5時の鐘が鳴ったのを有り難がったりしてブルックナー・ブームに火が付いたわけですからね、少なくとも一部のクリスチャンなどは「裏切られた」と怒るかもしれません。

けれども、だからこそ多様な死生観は認めるべきです。人間の信念の最も奥深い部分での価値観の共有が違和感に変わる時、憎しみの連鎖が始まり、ついには宗教戦争が始まってしまう、今回の話はその心理を理解するための、自分自身に対してのちょっとした実験にもなりました。

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岡本 浩和

>雅之様
確かに「抹香臭い」という言葉をよく使われてましたね。
思い出しました。

朝比奈&聖フローリアンのブル7は不滅だと思いますが、あの鐘も偶然ではなく、第2楽章が終わったのを見計らって鐘衝き係が鳴らしたのだという説もありますからね。それでもあの演奏の価値は一向に下がることはないと思います。真実だけをみるのが大事だと思います。

おっしゃるように死生観に限らず、どんな思考も十人十色ですべて正しいのだと僕も思います。
それをイデオロギー化し、互いに受け容れなくするところに人間の問題があるのでしょう。

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雅之

昨年からずっと悪い予感がしていましたが、宇野功芳さんが6月10日、老衰のため逝去されたそうですね。

宇野さんには本当に色々なことを教わりました。謹んでご冥福をお祈りしたいです。

しかし、改めて今年は年初から何という年なんででしょうね。

※ 引用部分について、ずっと気になっていましたので、訂正しておきます。

✖ レコード芸術 2015年12月号 「連載 宇野功芳の見たり、聞いたり 最終回」より

〇 レコード芸術 2015年12月号 「連載 宇野功芳の見たり、聞きたり 最終回」より

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