札幌交響楽団東京公演2014

sibelius_2_4_odaka_sapporo_20140305シベリウスは実演を聴かない限りその本質は掴めない。あらためて確信した。
第4交響曲の根底に流れるテーマは万物の創生であり、流転だ。と同時に、作曲家個人の感情のありのままを投影し、カタルシスを喚起、希望を再生する。何より、時に咆哮し、時に嘆き悲しみ、そして時に喜びを湛えながら、最後は極めて「謙虚」に終る潔さ。一般的に評価される「晦渋」などという姿はどこにもない。それどころか自然と一体化したある男の心象をこれほど明快に音化した作品は他にないのでは、とすら思える。

ここにおいてシベリウスは悟った。ヴァイオリンやヴィオラや、そしてオーボエや、それぞれの独奏に聴き取れる哀しみ、それも独り佇む悲哀の旋律は、実は万人が抱える孤独を示すかのよう。そう、この音楽には「孤独なる群衆」という題目が相応しい。

弦は自然や大地を表し、木管は鳥たちの愉悦。あるいは金管のコラールに人間の慄きを見、ティンパニやグロッケンシュピールなど打楽器の轟きに神々の叡智を発見する。

魂の清算と解放。まさに今の僕のテーマに相通ずる。

ホクレンクラシックスペシャル
札幌交響楽団東京公演2014

2014年3月5日(水)19時開演
サントリーホール
大平まゆみ(コンサートマスター)
尾高忠明指揮札幌交響楽団
シベリウス:
・組曲「恋人」作品14
・交響曲第4番イ短調作品63
休憩
・交響曲第2番ニ長調作品43
~アンコール
・悲しきワルツ

「恋人」の弦楽合奏における繊細さと濃厚さに釘づけ。若きシベリウスの、おそらく実体験が下敷きになっているのであろう浪漫的で美しい音楽に限りなく透明なエロスを見るようだ。
交響曲第4番については、その威厳と音楽の崇高さにひれ伏しそうになったほど。闇の中から湧き出る楽想が、次第に光を得て大いなる大地を形成してゆく様。そこに有機物が現れるものの、決して巨大化するのでなく収斂しながら「真理」と化してゆく様子が見事に表現されており、作曲者自身が「精神的交響曲」と呼んだのも頷ける。
ウィーンではマーラーが宇宙万物のうねりを大編成の管弦楽で表そうとしていた、あるいはシェーンベルクらが調性を叩き壊す暴挙(?)によって革新をもたらそうとしていた同時期に、北欧の彼の地でシベリウスは調性崩壊ギリギリの線上で留まり、信じられないようなミクロコスモスを創出していたことの驚異。この音楽は実演を聴かない限り絶対にわからない。

今夜の僕はもうこれで満足だった。後半はもはや不要だった。
しかしながら、交響曲第2番にも驚いた。素晴らしかった。それは尾高氏の棒、札響の演奏技術にもちろん依るのだけれど、この人口に膾炙した作品の予定調和的な盛り上がりに、わかりつつ感動する僕がいた。何より音楽的な「運び」、つまり「オーケストレーション」は第4交響曲と同類で、シベリウスはこの時点でシベリウスだったということも再確認。

ほとんどチャイコフスキーの第5交響曲に通じる気持ち良さとかっこ良さ。とはいえ、ここには、チャイコフスキーが5番初演後にフォン・メック夫人に宛てた手紙(1888年11月)に「あの中には何か嫌なものがあります。大袈裟に飾った色彩があります。人々が本能的に感じるような拵えもの的な不誠実さがあります」と記した浅薄さと同種のものがあることも否めない。

そう、シベリウスは病を得ることにより、苦しみ悩み、結果、自身がいかに取り繕っていたか、いかに不誠実であったかということに気づいたんだ・・・。そして交響曲第4番が生れた。自然と調和するありのままの自分がそこには表現される。

怒涛のような聴衆の拍手喝采の後、「悲しきワルツ」が明るく響いた。
ある意味「傲慢」であった第2交響曲と、「謙虚」の象徴である第4交響曲を並べることによって生まれた「ゼロ・ポイント」に響く「悲しきワルツ」はとても明るかった。

札幌交響楽団東京公演2013
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2 COMMENTS

畑山千恵子

このシベリウスシリーズは、2015年のシベリウス生誕150年まで続くそうです。息の長い企画ですね。

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