トルトゥリエ&ハイドシェックのフォーレを聴いて思ふ

faure_tortelier_heidsieck亡くなられた高橋英郎さんが書かれた小論「フォーレのドラマトゥルギー」の書き出しは以下の通り。

フォーレの「夜想曲」を聴いていると、こころがなごむ。
散文的な「昼」という半球が終って、やっと「夜」という詩の世界が始まる予感がする。日々繰り広げられる世俗の営み、―その愚かしさや痛ましさや喧騒の時間の流れの中で、フォーレの夜想のタピスリが不思議な安らぎを与えるのはなぜだろうか。
日本フォーレ協会編「フォーレ頌―不滅の香り―」P87

この言葉にガブリエル・フォーレの音楽性のすべてが巧みに表現されているように僕は思う。フォーレの音楽はいずれも「夜」の音楽であり、そこにはリヒャルト・ワーグナーの世界に通じる「魔」があり「毒」が潜む。19世紀後半のフランスにあってこの誇大妄想的天才の影響を受けない芸術家などいなかった。フォーレも入れ込んだひとり。「マイスタージンガー」に深い感銘を受け、「パルジファル」には骨の髄まで感動した。

音楽的には「パルジファル」は、巨大な芸術の輝ける穏やかな日没といえるかもしれない。力強く晴朗な偉大さをもった驚くべき傑作は、人間感情の激しさと爆発に満ちた、ヴァーグナーのそれ以前のどの作品とも比べられない。・・・もう一度いかなる分析も不可能だといおう。ある種の音楽を説明するには言葉では不十分だからである。「パルジファル」を聴かなければならない。聴いて、見て、そして言葉に尽くせない感動のなすがままにならなければいけない。
1914年1月2日
~同上P164

上記は、舞台神聖祝典劇「パルジファル」への、フォーレ自身の評論からの抜粋だが、手放しの讃辞であることがわかる。そして彼のこれらの言葉は、特に彼自身の晩年の作品の芯にも通底するものだ。作品に触れている最中は、言葉にならない(時間的)永遠と(空間的)深遠が終始感じられる「至高の時間」に支配される。例えば、チェロの作品。

フォーレ:
・チェロ・ソナタ第1番ニ短調作品109
・チェロ・ソナタ第2番ト短調作品117
・エレジー作品24
・セレナード作品98
・蝶々作品77
ポール・トルトゥリエ(チェロ)
エリック・ハイドシェック(ピアノ)(1974.1.21, 4.22 &6.28録音)

座右の音盤。いつ何時聴いても金縛りに遭うほどの感動が味わえる、ちょうど40年前の奇蹟の録音。2つのチェロ・ソナタに感じられる慟哭は、ちょうど第一次大戦の戦地に赴いた次男のフィリップの身を案じる父親としての悲痛な愛の叫びともとれる。そして有名な「エレジー」はやっぱり素敵な音楽だ。漆黒の闇のトルトゥリエに対し、煌びやかな光のハイドシェック・・・。

トルトゥリエのチェロは哀しい。ここにあるのはまさに「夜想のタピスリ」だ。しかし、それ以上にハイドシェックの、主楽器に寄り添いながらも音楽の核心を突き、ぶれない堂々たる響きに散文的「昼」を僕は感じる。すべてが包み込まれる不思議な包容力こそがフォーレの「毒」であり、「魔」なんだ。聴覚疾患に襲われながらも、それこそ「内なる耳、絶対音感」を頼って書かれた音楽は真に神々しい。

ポール・トルトゥリエ生誕100年の日に・・・。

 


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2 COMMENTS

畑山千恵子

これは素晴しい組み合わせですね。フランスの香りが伝わってきます。あのハイドシェックの神業のようなピアノは今でも素晴しいものですね。

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