コルボ&アンサンブル・ヴォカールのフォーレを聴いて思ふ

faure_requiem_corboz_ensemble_vocal時折「沈黙」の音を聴きたくなる。まったくの静寂でなく、音がある中での静けさを体感したいということ。それはおそらく、日常の喧騒から逃れたいという思いと、自らの内側にとにかく浸りたいという思いが重なる中で起こる感情だろうと想像する。
そうなると、作品はひとつしかない。フォーレの「レクイエム」

私の「レクイエム」・・・は死に対する恐怖感を表現したものではないと言われており、中にはこの曲を死の子守歌と呼んだ人もいた。しかし、私には死はそのように感じられるのであり、それは苦しみと言うよりもむしろ永遠の至福と喜びに満ちた解放感にほかならない。グノーの音楽が人間的優しさに傾き過ぎていると非難されても、彼の本性がそのような感性を導いたのであり、そこには固有の宗教的感動が形作られている。芸術家には自己の本性を容認することが許されていないのだろうか。私の「レクイエム」について言うならば、恐らく本能的に慣習から逃れようと試みたのであり、長い間画一的な葬儀のオルガン伴奏をつとめた結果がここに現れている。私はうんざりして何かほかのことをしてみたかったのだ。
1902年7月12日付、パリ・コメディア紙
ジャン=ミシェル・ネクトゥー著・大谷千正編訳「ガブリエル・フォーレ」P83

大衆は芸術を特別のものとみなす。しかし、作曲者本人からすると、信仰心は横に置くとして、あくまで心情の告白であり、思考の個人的吐露であることは間違いなく、そこは僕たち凡人(聴衆)が正しく容認するしかない。

聴く者のと捉え方、判断は自由だ。しかし、作曲家の「真実」はひとつ。ただし、そのことは決して言語化できない。音楽がすべてを物語るから。音楽を言語化しようとする僕のような試みがそもそも愚の骨頂ということ。

深夜にミシェル・コルボを聴いた。

フォーレ:
・レクイエム作品48
・ラシーヌ讃歌作品11
・女声合唱とオルガンのためのモテット「恵み深き御母マリア」作品47-2
・女声合唱とオルガンのためのモテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」作品65-1
・女声合唱とオルガンのためのモテット「タントゥム・エルゴ」作品65-2
・バリトン、合唱とオルガンのための「トゥ・エス・ペトゥルス」
・ソプラノ、合唱とオルガンのための「タントゥム・エルゴ」(1904)
・ソプラノ独唱と女声3声合唱のための「小ミサ」
マガリ・ダミ(ソプラノ)
ピーター・ハーヴェイ(バリトン)
ミシェル・コルボ指揮アンサンブル・ヴォカール&ローザンヌ器楽アンサンブル(1992&1995録音)

ベルン交響楽団との不滅の名盤を差し置いて・・・。
年齢を重ねた分、一層の純度を求む、本来ならば。しかし、悪い言い方をすれば、より「色が付き、雑多な印象」を拭えない。ただ、そこにこそ「真実」があるんだ。死というのはあくまで現世的、俗世間的な思考から生み出されるものゆえ。

フォーレの言から推察するに、この音楽は世間が思っているほど高尚なものではない。これほどの俗物はないのかも。だからこそ本物なんだ・・・。
数年前に触れたコルボの実演を思い出した。

「ラシーヌ讃歌」も素晴らしい。合掌・・・。生誕50年の日に。

 


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