メトロポリタン歌劇場2013 ゲルギエフの「エフゲニー・オネーギン」を観て思ふ

tchaikovsky_eugene_onegin_gergiev_met「思い上がり」と「良心の呵責」と、そして「失ったものへの後悔」と。ここには人間存在の様々な「負」が横溢する。「恋」という男と女の関係に起因し、当時のロシアらしい「身分格差」、あるいは「身なり」という表面上の因習にも左右される人間の感情。本質を見失うことを忘れてはならないことを諭されるよう。

メトロポリタン歌劇場のオーソドックスな舞台。歌い手の熱気溢れる見事な歌唱。躍動感に満ちるゲルギエフの音楽。そして、立体的でおそらく劇場で生を体験するよりリアルな動きを見せてくれるカメラワーク。どこをどう切り取っても秀逸だ。

終幕最後の場面でのタチヤーナの「幸せは私たちの手の届くところにあった」という言葉が虚ろに響く。時すでに遅し。彼女のいまだ癒えぬ心の傷は、もはや人妻であるという倫理観と相まってオネーギンを拒否することに執着する。いかにも心揺さぶれる女心を表現しているようだが、あるのは恨みから発せられた冷たさなのでは。独り舞台に残ったオネーギンの絶望的姿がそのことを物語る。心はいつもすれ違う。男と女の問題は・・・、難しい。

優れたメロドラマだ。
この作品を作曲していた時期、アントニーナ・イヴァノヴナ・ミリューコヴァとの願わぬ結婚に懊悩し、わずか80日で終わりを迎えることになったチャイコフスキーの苦悩は、第1幕のオネーギンがタチヤーナを振る場面に露骨に描かれる。一般に、彼のホモセクシャル説が結婚生活の破綻の原因のひとつとして挙げられるが、オネーギンと同じく「思い上がり」というものが内にあったのかもしれないと考えるのは僕だけだろうか。
それにしても全編を通じて聴こえるチャイコフスキーの音楽の魔法。特に、第1幕「手紙の場」におけるタチヤーナの、そして第3幕第21番におけるオネーギンの夢想。留めはすれ違った後の、主人公ふたりが燃え上がるような想いを伝え、葛藤を喚起するシーン、最終場面二重唱「ああ、何て苦しいの!」。

チャイコフスキー:歌劇「エフゲニー・オネーギン」作品24
アンナ・ネトレプコ(タチヤーナ、ソプラノ)
マリウシュ・クヴィエチェン(エフゲニー・オネーギン、バリトン)
ピョートル・ベチャワ(レンスキー、テノール)
オクサナ・ヴォルコヴァ(オリガ、アルト)
アレクセイ・タノヴィッツキー(グレーミン公爵、バス)
ワレリー・ゲルギエフ指揮メトロポリタン歌劇場合唱団&管弦楽団(2013.10.5Live)
デボラ・ワーナー(演出)

第1幕と第3幕のタチヤーナの変貌は見事だ。いや、健気で純真な性質は根本的には変わっていないだろう。しかし、愛と表裏一体の憎悪(哀しみ?)をこれほどに見事に表現し、巧みに演じることができるのはアンナ・ネトレプコであるがゆえ。オネーギンに扮するマリウシュ・クヴィエチェンも熱い好演。
そして何より粘着質のロマンティシズム溢れる音楽作りを任せれば右に出る者のいないワレリー・ゲルギエフの天才。メトロポリタン・オペラは見逃せない。

 


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