フルトヴェングラーのブルックナー交響曲第9番を聴いて思ふ

bruckner_9_furtwanglerかつて動的なブルックナーにどうして嫌悪感を抱いていたのか不思議でならない。
テンポが揺れるとどうしても音楽は人間臭くなる。しかし、音楽そのものは神聖でありながら俗的なものだ。「人間臭いもの」を受け容れられないようならその音楽ははっきり言って二流。ベートーヴェンはあらゆる解釈を受容する。モーツァルトもそう。
今の世に受け継がれ、残る芸術はその意味では「万能」。だったらどんな演奏も「個性」として理解し、受け止めるべきなのでは・・・。

フルトヴェングラーのブルックナーを聴いた。亡くなる年にとあるホテルで遭遇した朝比奈隆に「原典版でやるべきだ」と忠告した巨匠の音楽が正統でないはずがない。確かにテンポの揺れは激しい。ディナーミクもそう。しかし、神に捧げられたこの作品も所詮はロリコン野人アントン・ブルックナーというフィルターを通して生み出されたものだということを忘れてはならない。

第1楽章コーダの得も言われぬ孤高の音楽が、「信仰」とは乖離する、あくまで現実的な境地によって表現される妙。何よりジャケットの、この有名な指揮者の恍惚の表情がそのことは暗示する。

ブルックナー:交響曲第9番ニ短調(ハース版)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1944.10.7Live)

第2楽章スケルツォの、あまりに急速な表現は少々やり過ぎのきらいがなくはない。その一方、トリオではがくんとテンポが落ちる。しかしその分感情がこもる。こういうブルックナーは聖なる観点からすると拒絶されるのだろうが、リンツの田舎者という視点からすると正しい。僕はあらためて目から鱗が落ちた。

そして、何より美しいのが第3楽章アダージョ!!ナチス・ドイツがまさに敗戦に向かうあの頃に奏でられた野人の白鳥の歌。フルトヴェングラーはわかっていたのだと思う。

・ブルックナーにおいて最も難しいのは、なめらかで、落ち着いたイン・タクト演奏(拍節を保持する演奏)である。何らルバートはない。

・ブルックナーは強調する記号をふんだんに使用した。だからそれ以上強調することをしてはならない。

・金管は自分の演奏する音の意味を考えずに吹きまくってはならない。いつも演奏する部分の意味をはっきりさせ、いつも気品をもって―。
~ライナーノーツより抜粋

真に的を射る。
それゆえフルトヴェングラーのブルックナーは「正しい」のだとあらためて思う。

 


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2 COMMENTS

畑山千恵子

元来、フルトヴェングラーはブルックナーには向かなかったかもしれません。宇野功芳氏はそういっています。とはいえ、ブルックナーでも素晴しい演奏を聞かせたことは確かです。
ブルックナー全集編纂にあたったローベルト・ハースはナチス協力者だったため、この事業から降ろされ、全集は未完に終わりました。そのため、オーストリアの音楽学者、レオポルト・ノヴァークが新全集の編纂にあたり、全集が完成したことになります。
ヨーロッパではナチス協力者とわかった場合、かなり厳しいようですね。

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岡本 浩和

>畑山千恵子様
僕もかつて宇野さんの言葉を鵜呑みにして、そのように信じておりましたが、素晴らしいものは確かにあるんですよね。それに聴くことができるのはあくまで古い録音しかないわけですし。
ということで、先入観をすっ飛ばし聴いてみるとその素晴らしさが理解できるようになりました。

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