チェリビダッケ&シュトゥットガルト放送響のブラームスを聴いて思ふ

brahms_2_3_celibidache_stuttgart完璧に計算され尽くした音響。録音で聴いてすらわかるのだから、実演ならばさぞかしだっただろうと想像する。フレーズとフレーズの「つながり」を大事にする基本的には抑制モード。本来ならばフォルテで一気に爆発するべき箇所も、まるで音楽がその場で湧き上がるかのようにコントロールされ、音楽の「有機性」、そして「一回性」が見事に保たれる。
これほどクールで知的なブラームスは初めてかも。

雨により気温が下がる。早くも秋の気配。セルジュ・チェリビダッケのヨハネス・ブラームス。

黄色くなった木の葉が、かさこそ音をたてながら落葉し、その散歩道を秋に染めれば、第三交響曲を想い、春たけなわの頃、ブラームスの家をたずねると、第二交響曲を想起する。このバーデン・バーデンのブラームスの家、その仕事部屋の窓から見る緑の岡の風景は、ぼくに低弦の山ひだとホルンのこだま、小川のつぶやきと緑の木の葉を渡る涼風を思い出させる。たとえ第二交響曲がもっとあとに、ほかの場所で完成されたとしても。
~若杉弘「ブラームス雑感」(カラー版作曲家の生涯)P104-105

チェリビダッケの第2交響曲は決して「春」を喚起しない。季節感などぶっ飛ばすメカニカルな音楽。そこがまたあの当時のチェリビダッケの生き様の表象で面白い。
第3交響曲についても同じく。黄色くなった木の葉どころか、ここにあるのは色彩豊かな「モノクロ」だ。そういう矛盾こそがやっぱりチェリビダッケの生き方の表象。

・交響曲第2番ニ長調作品73(1975.4.11Live)
・交響曲第3番ヘ長調作品90(1976.11.19Live)
セルジュ・チェリビダッケ指揮シュトゥットガルト放送交響楽団

この人は類稀なる毒舌家だった。
彼の言葉を知り、彼の音楽を聴いて思うのは、チェリビダッケは本音と建前が極端に激しい人だったのではないかということ。一見気難しい側面を表にしつつも、根はとても優しい、器の大きい人なのではと。言葉を鵜呑みにしてはいけない。

カール・ベームを聴けば聴くほど、彼と彼の心にあると思われる音楽との距離が明白になります。
クラウス・ウムバッハ著「異端のマエストロ チェリビダッケ 伝記的ルポルタージュ」P188

今日では音楽を演奏している指揮者を一人も知りません・・・クーベリックだけじゃないでしょうか、なんとかものになりそうなのは。サヴァリッシュは大学学長。音楽家ではありません、メッゾ・フォルテの人。イタリアでは長距離のエキスパートをメッゾ・フォルテと呼びます。それで、カラヤンは?大衆を夢中にさせます。コカ・コーラもね。
~同上書P189

他を批判する精神は必要で重要なものだが、過ぎれば逆効果。それは、むしろ、彼の音楽をせせこましい、狭小なものに押し込める。
解釈としては理に適った素晴らしいものであるにも関わらず、いまひとつ感動から遠いのはそういうことに理由があるかも。

音楽とは、もっとうねり、破綻ギリギリの賭けあるものなのではないのか?
あまりに整然とした音楽は巧妙なのだけれど、味が薄い。いかにも熱いようで実際は冷たいんだ。完璧だからと言って必ずしも人は感動しない。

とはいえ、チェリビダッケのライブに触れていない僕があれこれ言うのはナンセンス。実演は違ったのだと思う。

 

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