ジョルジュ・ドン 日本最後の「ボレロ」(1990.4.26Live)を観て思ふ

jorge_donn_last_bolero_in_japan世界のすべては女性的なるものと男性的なるもので構成される。
あらためてモーリス・ベジャールに先見を想う。黛敏郎の音楽を使用した「舞楽」はある意味ベジャールの予言だ。アメリカン・フットボール・プレイヤーに男性性、そして直線的な力を託す。そして、一方、女性性、曲線的なるものは巫女によって表現される。しかも、最終的にはそれぞれが中和し、そしてひとつになってゆくその中心となるのが女性性であり、日本的なるもの。それはまさに20数年後の現代を見通す力によって成立したもの。
同じく東京バレエ団によって演じられた「火の鳥」にも同様のコンセプトを想った。「火の鳥」は「かごめかごめ」ではないのか・・・。

夜明けの晩に、鶴と亀が統べった
後ろの正面だぁれ?

相反するすべてがひとつになる。出雲と伊勢の式年遷宮が完了する2014年こそがその時のはじまりだとする説もある。上野の文化会館でその舞台を観たとき、当然ながらジョルジュ・ドンの「ボレロ」が日本最後だという謳い文句であったことも手伝って、そっちにばかり意識が向いていたお陰で意義を完全に見過ごしていた。それに当時の僕は20代後半。そんな空想は思っても出て来なかっただろう。

チャイコフスキー記念東京バレエ団創立25周年記念公演
ジョルジュ・ドン最後の「ボレロ」
・「舞楽」(音楽:黛敏郎)
・「アダージェット」(音楽:マーラー)
・「火の鳥」(音楽:ストラヴィンスキー)
・「ボレロ」(音楽:ラヴェル)
演出・振付:モーリス・ベジャール
総監督:佐々木忠次
芸術監督:溝下司朗
特別出演:ジョルジュ・ドン
出演:チャイコフスキー記念東京バレエ団(1990.4.26Live)

実際には息を殺してその場を凝視する大観衆がいたその前で演じられた、皮肉めいたひとりきりでの「アダージェット」には、晩年のドンの孤独の美を感じると同時に、つながりの安らかささえ感じた。記憶が20数年前に一気に引き戻される。
日本最後と言いながら、あと1回あった「ボレロ」(確か翌年の世界バレエフェスティバルの大トリで「ボレロ」が演られたんだったと記憶する。事前告知は一切なく、当日その場にいた観客だけが堪能できたサプライズ・ゲストだった)も、ジョルジュ・ドンならではの、永遠のそれ。しかし、残念ながら全盛期の身体のキレは後退している。あれはやっぱりビデオで鑑賞するのでなく、あの場で生で体験するべき一世一代のパフォーマンスであったことを物語るよう。

ベジャール演出の作品はいずれも「両性具有」の具現化であり、すべての統合を示唆するものだと確信した。まさに20世紀ならぬ21世紀、現代のバレエなのである。

 

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2 COMMENTS

畑山千恵子

このバレエが黛敏郎「舞楽」を基にしたものだということで、「ザ・カブキ」、「MISHIMA」も思い出しました。チャンスがあったら、どちらも見たいものですね。

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