クナッパーツブッシュのブルックナー交響曲第9番(レーヴェ改訂版)を聴いて思ふ

bruckner_9_knappertsbusch_bpoかつて宇野功芳氏は、クナッパーツブッシュのブルックナー第9交響曲について次のように書かれていた。

ぼくはかつて次のように書いたことがある。
―クナッパーツブッシュのレコードにブルックナーの第9が欠けているのは一大痛恨事である。シューリヒトの演奏が非常にすばらしいのにも拘わらず、迫力不足という点にいささかの不満を持つ人も居るので尚更だが、クナが第9を振ればおそらく「改訂版」を使用するにちがいない。ところが第9のそれは第5以上に弟子たちの手が加わったものなので、そんなレコードを聴けば、クナの表現に舌を巻きながらも、これが「原典版」だったら・・・と絶えず嘆かなければならないだろう。無い方が幸せなのかもしれない、と思って無理にあきらめることにしている。―
やっと世に出たクナの第9を聴いて、どうやらこの文章が事実になってしまったことを、ぼくは知るのである。
実にこれはひどい!アレンジがブルックナーの世界を徹底的に破壊し去っており、その暴挙は真に許し難い。
「音楽の手帖 ブルックナー」(白水社)P211

当時、高校生の僕はこの文章によって結果的に偏見や先入観をもつことになるのだが、逆に「改訂版」という存在そのものにとても興味を持ったことも事実。そして、随分後に手に入れた1950年のベルリン・フィルとの実況録音盤によって、ブルックナー音楽の懐の深さを知らしめられた。
クラシック音楽の世界ではなぜに「原典」に固執するのか?ポピュラー音楽界では他人の作品をカヴァーし、アレンジを徹底的にいじり、それがヒットにつながり作者の名声にもつながることもあるというのに・・・。少なくともブルックナーの最後の交響曲も弟子たちの「親切な」手直しによって大衆から受け容れられる土壌ができたのだから「改訂版」を「改悪版」「改竄版」などと称してこの世から葬り去るのは何か違うように今の僕は思うのである。

皆が幸せになることを祈ってブルックナーが音楽を書いたかどうか、そんなことはわからない。しかし、一時も筆を休めることなく、ただひたすら自身の希求するものを「交響曲」という形を借り、執拗に創造し続けた心底にはやはり「神への絶対的愛」があったのだと空想する。そして、完成をみなかった最後の交響曲はついに神に捧げられた。ブルックナーの内側でいよいよすべてがひとつになったのである。

それほどに神々しい、しかも結果的に崇高なアダージョで終わる作品を、世間は拒否するだろうと弟子たちは考えた(あくまで僕の妄想)。なるほど、一理ある。

ブルックナー:交響曲第9番ニ短調(レーヴェ改訂版)
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1950.1.28Live)

1950年1月28日、ティタニア・パラストでの演奏会においてもクナッパーツブッシュは当然レーヴェ改訂版を使用した。たとえ(似非?)ブルックナーであろうと、これほど豪快で、呼吸の深い解釈を、当日その場に居合わせた人は感激して受け容れたのではなかったか。どの楽章もブルックナーへの愛に溢れ、音楽が縦横に息づく。
第1楽章は神々の讃歌から人間讃歌へ、第2楽章スケルツォも本来の野人の輪舞から都会人の踊りへと変貌させられている。打楽器の追加による轟音が僕たちを打ちのめす。
しかし、最も興味深いのは第3楽章アダージョ。管弦楽法、ディナーミクなど、いかにもロマン派風に改変されており、宇野さんがおっしゃるようにブルックナーの世界を徹底的に破壊しているが、それでも今の僕には十分楽しめる。例えば、17小節から19小節(スコアのAの部分)は原典版ではフォルティッシモの指定だが、レーヴェは3つの小節それぞれをクレッシェンドさせ、地から楽音が湧き出るかのような印象を聴く者に与えんとするのだ。

「原典版」がブルックナーの聖なる側面を表すとするなら、「改訂版」は俗人ブルックナーの「俗なる部分」を露わにする。
これほどに人間っぽいブルックナーの交響曲第9番をこのままお蔵入りにさせてしまうのは実にもったいない。もはや誰も顧みることはないのだろうか・・・。最新録音で、あるいは実演で聴いてみたい。

 

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