ミュンシュ&パリ管発足演奏会ライブ(1967.11.14)のドビュッシー「海」を聴いて思ふ

debussy_lamer_munch_paris_1967_live013恋というものが人々の創作の熱を活発にする。たとえそれが世間から認められず、非難され、挙句見放されるようなものだとしてもお構いなし。ひとりの芸術家の才能を開き、傑作を世に産み落とすことの方が重要だということ。

汝が魂は地獄に行きて不在なるも
しなやかなる汝が片腕にのみ被はるる
美しき形よき腹もてる汝が肉体は
目ざめたり
汝が肉体は目ざめたり、
わが眼ひらきたり。

まるでさすらい人がエルダにかける声のようである。ポール・ヴァレリーの「眠る女」(堀口大學著「月下の一群」P27-28)。ヴァレリーを読んでドビュッシーを想った。
「海の夜明けから真昼まで」を初めて聴いた時、管弦楽を駆使した、他の誰も成し得なかった音絵巻に心動かされた。何という優しさ・・・、何という滑らかさ・・・。

形にこだわるなという閃き。形を追うと、いずれ中身が追いつかなくなると。
なるほど、クロード・ドビュッシーは「西洋古典」の形式を壊すことを徹底したがゆえ、お蔭で音楽の内実が一層深いものになった。もちろん先に進むにはそれしか方法がなかったのだともいえる。この人が「印象派」と呼ばれる所以は、その表面的な美的音響にあるのではない。あくまで見えない、音楽の深層に深く刻み込まれた心象が周囲をしてそう呼ばせたのだと考えた。

そして、シャルル・ミュンシュのシャンゼリゼ劇場におけるパリ管弦楽団発足演奏会ライブでの「海」をあらためて聴いて、この作品によってドビュッシーは真にドビュッシーになったのだと知った。

ドビュッシー:管弦楽のための3つの交響的素描「海」
ベルリオーズ:幻想交響曲作品14
シャルル・ミュンシュ指揮パリ管弦楽団(1967.11.14Live)

実に颯爽としたテンポでありながら、鬼神が乗り移ったかの如く音楽はうねり、咆哮する。ここではもはやワーグナーのそれを超える。ドビュッシーにも毒があるのだ・・・。

「波の戯れ」に入り、ミュンシュのオーケストラ・ドライブはいよいよ調子を上げ、実にリアルな自然の描写が大管弦楽によって成し遂げられる。そして、最後の「風と海の対話」では、まさに風が唸り、海が荒れる様を見事に表現する、・・・かのように聴こえるのだが。
しかし・・・、ここに表現されるのは作曲者の内側に在る、当時の葛藤だ。そう、エンマ・バルダックとのかけおちを経ての結婚から得た幸福感であり、一方で多くの友人を失った悲しみ。

芸術とはあくまで創作者の心底にある憧憬や安寧、あるいは苦悩の表出なんだろう。ドビュッシーの「海」は20世紀の最高傑作のひとつであり、それを見事に演奏したミュンシュ&パリ管のライブは一世一代の記録だといえる。

ちなみに、ベルリオーズの「幻想」は、例の有名なスタジオ録音を超えるライブの人ミュンシュの面目躍如たるいわずもがなの超名演奏!!

 

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