Keith Jarrett “München Concert”(1981.6.2Live)を聴いて思ふ

jarrett_concerts_bregenz_munchen終日、雨。思考を止め、ひたすら音楽に耳を傾ける。
キース・ジャレットの言葉は深く、重い。彼の言葉はピアノそのものだ。彼は言う。

私はピアノと共に育った。話すことを覚えながらその(ピアノの)言語を学んだ。これは、言葉よりもより完璧な、より繊細な、そしてより活き活きした言語だ。

この人の、まるで手足のようにピアノを縦横に操り、言葉の如く「感じたまま」を音にできる様を知っている僕たちはこの言葉に「なるほど」と頷く。

即興は言葉にできる以上のものだ。その瞬間における参加が完璧であることが望まれるという(これもやはり)より重大な責任なのだ。「赤々と燃え続く」、「神の意志」(より大きな力によって神の、ということだ)なのだ。

ここにキースのすべてがある。
そして、キースは、演奏者と聴衆の間に隔たりはなく、ひとつだという。つまり、こうだ。

貴方(ピアニスト)が、人間のアイディアや考えを遥か超えたメッセージ(衝動)の犠牲者であるのだけではなく、その出来るだけ大きな一部を、吐き出さなければならないことを意味する。そして今度は(同時に?)その音とはそれまで無関係だったかのように影響を受けなければならない。そこでやっと聴いている人を代表することができるのだ。

会場にいる人は皆音楽に参加しているともいえる・・・皆がピアニストなのだと。

特に敬虔な儀式のようなキースのソロ・コンサートに参加する時の心構えはおそらくキースの言葉通りのことだ。それは、録音からだけでも十分に察することができる。ミュンヘン・コンサートを聴いて思った。

Keith Jarrett:München Concert(1981.6.2Live)

Personnel
Keith Jarrett (piano)

キース・ジャレットの、少なくともソロ・パフォーマンスは、何らかの宗教儀式に近いものだと昔から感じてはいたが、どうやら演奏そのものが「自然讃歌」であるらしい。「自然」を理解しない人には自分の演奏の価値は絶対にわからないと。

自然の中に単調さ(退屈さ)を見出す人は、本物の即興に単調さを見出すだろう。そんな人は、プロセスに目をやることなく、その単調さの視点を持ち込むだろう。

その上で、彼は次のように断言する。

私たちは参加するために創り出されたのだ。
参加することは、挑戦を受け入れ、意識的に自らの人生に参加することだ。どうせ参加しなければならないのなら、意識的にやるっていうのはどうだろう?

自らを主体に生きよと。
音楽を聴くことも主体的に、ただ聞くのではなく聴けと。
キース・ジャレットを聴くことは人生を主体的に生きることと同義。
1981年6月2日のミュンヘン、ヘラクレスザールはさぞかし熱かったことだろう。

※太字はすべて「ヨーロピアン・コンサート〈完全版〉」のライナーノーツより抜粋。

 

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