クレメンス・クラウス&バイロイト祝祭管の「ジークフリート」(1953.8.10Live)を聴いて思ふ

wagner_ring_krauss_1953023クレメンス・クラウスの生み出す音楽は不思議に明るい。
楽劇「ジークフリート」第3幕の前奏曲もクナッパーツブッシュの深く虚ろな響きに対して音色が軽快で透明、実に見通しよく心に直接に伝播する。
ワーグナーがルートヴィヒ2世に宛てた手紙(1869年2月23日付)の一節にはこの部分を指して次のようにある。

世界の滅亡がさし迫っています。ヴォータンは世界の再生に心を悩ましている。なぜなら、彼は世界生成の意志そのものである。ここではすべてが荘厳なおののきの気を帯びていて、謎を用いて表すほかはないのです。
日本ワーグナー協会監修・三光長治/高辻知義/三宅幸夫編訳「ジークフリート」(白水社)P121

ワーグナーの意図を明確に反映するのはおそらくクナッパーツブッシュの解釈だろうが、クラウスの、まるで不幸すら不幸と思わず楽しみに変える楽観性が音楽に一際の余裕を与えているのである。
一方で、「コジマの日記」をひもとくと次のようにも。

ちょうど今、写譜にとりかかっている「ジークフリート」第3幕の前奏曲にすっかり目を開かれる思いをしたリヒターが、特にノルンたちの主題を取り上げてオーケストレーションについて語りだすと、リヒャルトは笑いながら次のように言った。「そうだ、ここは幼児のように高い響きだ。人を愛したことも、母親になったこともない処女のような存在。気高くも神々しいものと、魔性を秘めた幼子の金切り声が隣り合わせになっている。・・・」
1870年10月21日金曜日
三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記2」(東海大学出版会)P197-198

仮にここに言及される部分だけを切り取ってみてもわかる。1953年のバイロイトの「指環」は巷間の評判に違わず実に素晴らしい。
ちなみに、第3幕第2場のさすらい人(ヴォータン)とジークフリートの白熱するやりとりはワーグナー自身も最も美しいとする箇所だが、クラウスの指揮する音楽の何と活き活きしていることか。生きているようだ。

ヴォータンとジークフリートのやりとりの場面のオーケストレーションに取り組んでいたリヒャルトは、これまでに自分が書いた台本のなかで最も美しいシーンだと言ってから、冗談めかして、ヴォータンの悲劇は長生きをしすぎたことに、そしてジークフリートのそれは短命に終わったことにあると述べた。
1870年10月20日木曜日
~同上書P196

そして、第2場から第3場への舞台転換の音楽のあまりの美しさと、続くジークフリートがいよいよブリュンヒルデとの邂逅を遂げる第3場のオーケストラ(「神々の黄昏」のジークフリートの死の場面と同じ音楽)のあまりの激烈さと圧倒的響きに他のどの指揮者のものでも体感できなかったワーグナーの真髄を発見し(これだけでもクラウスが恐るべき才能をもった指揮者であったことがわかる)、同時に全盛期のヴィントガッセンの歌唱とヴァルナイの深く崇高な歌にひれ伏してしまいたくなるほど。

太陽にわが祝福を!
みなぎる光に
煌々と輝くこの日にも祝福を!
わたしの眠りは長かったが
いま目ざめたわ、
わたしの眠りを覚ました
勇ましい方はどなた?
日本ワーグナー協会監修・三光長治/高辻知義/三宅幸夫編訳「ジークフリート」(白水社)P147

ワーグナー:楽劇「ジークフリート」
ハンス・ホッター(バリトン、さすらい人)
ヴォルフガング・ヴィントガッセン(テノール、ジークフリート)
アストリッド・ヴァルナイ(ソプラノ、ブリュンヒルデ)
グスタフ・ナイトリンガー(バス、アルベリヒ)
パウル・クーエン(テノール、ミーメ)
ヨーゼフ・グラインドル(バス、ファフナー)
マリア・フォン・イロスファイ(アルト、エルダ)
リタ・シュトライヒ(ソプラノ、森の鳥の声)
クレメンス・クラウス指揮バイロイト祝祭管弦楽団(1953.8.10Live)

ヴィーラントと対立したクナッパーツブッシュが指揮を降りたためクラウスにお鉢が回って来たといういわくつきの1953年バイロイトの「指環」。お蔭でクレメンス・クラウスの見事な「指環」が聴けることは不幸中の幸い。
「ジークフリートの愛の動機」が現れて以降の、沈静する管弦楽の美しさとヴァルナイの絶唱の見事な対比、そしてヴィントガッセンとのやりとりがひとつになりゆく様!!ここは、楽劇「ジークフリート」の白眉であり、またクラウスの「指環」のひとつのクライマックスでもある。

わたしは永劫の時を生きてきた、
永劫の時の中で
甘美なあこがれの歓びにひたりながら
いつもあなたの身の栄えばかり念じてきました!
~同上書P157

オーケストラの終結を待つことなく観客が思わず拍手をし出す(途中でそれは止められ、最後の音が鳴り終わったところであらためて怒涛の拍手になる)ところにこの演奏の凄さが刻印される。何という熱いワーグナーであることか!!

指揮者としてのクラウスは、きわめてすぐれた腕をもちながら謙虚。リヒャルト・シュトラウスを思わせる身振りでもって、コンサート、オペラのいずれにおいても、非の打ちどころのない仕上がりを見せた。感情過多、大袈裟なジェスチャーといったものは彼には縁がなかったけれども、音楽をすることの喜びと快い緊張に溢れており、それが私たち演奏者をもひきつけた。
オットー・シュトラッサー(鳴海史生訳)

この言葉がクラウスのすべてを言い当てる。寄せ集めのバイロイトのオーケストラの勢いが並みでない。

 

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