イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル2014

pogorelich_recital_2014214055ショパン国際コンクール直後のポゴレリッチも、1990年代のポゴレリッチも、あるいは失意の中、自らの方向性を失いながらも試行錯誤していた彼も、そして今日の彼も・・・、いつの時代もポゴレリッチはポゴレリッチだ。

「イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル」に詣でた。あまりの人間的なポゴレリッチにひれ伏した。つい4年ほど前、あの時はまるで能舞台のような、ほぼ真っ暗闇のステージで、ほとんど宗教的儀式を執り行う僧侶の如くの風情に賛否両論が巻き起こった。音楽のフレーズは分断され、彼が一体どこを弾いているのか時に見失うほどの強烈な演奏だったが、あれはあれで僕にとっては最高のひと時だった。

いつものように開場後も彼はステージ上で指慣らしに勤しんでいた。黙ってそのリハーサルに耳を傾ける聴衆を時折気にしながら淡々と音楽に集中する様に心動かされた。開演10分前には袖にはけ、そして19時を5分ほど過ぎた頃、ポゴレリッチは再び僕たちの前に今度は正装で現れた。照明も以前のように極端に暗いものでなく常識的な明るさ。最初のリスト「ダンテを読んで」の3つの音程の響きを聴いて、この人の完全復活を確信した。

イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル
2014年12月14日(日)19:00開演
サントリーホール
・リスト:巡礼の年第2年「イタリア」からダンテを読んで(ソナタ風幻想曲)
・シューマン:幻想曲ハ長調作品17
休憩
・ストラヴィンスキー:「ペトルーシュカ」からの3楽章
・ブラームス:パガニーニの主題による変奏曲作品35
イーヴォ・ポゴレリッチ(ピアノ)

約20分で奏された「ダンテを読んで」冒頭の強靭な打鍵に相変わらずのポゴレリッチ節を見た。何という神秘性。リストが、ヴィクトル・ユーゴーの「地獄を描く詩人は、我と我が身の生涯を描いたのだ」という一節から始まる詩に触発されて作曲したもので、アルフレート・ブレンデルの解釈によると「ダンテの地獄篇にある言葉を描写するものではなく、呪われた人々の魂を目ざめさせるよびかけとして理解されるべきである」ということだが、当のブレンデル以上にその言葉を体現する見事な表現。何より音の強弱の自然な流れと、静かで遅いテンポの時にも一切の弛緩のない音楽に感動した。

シューマンの「幻想曲」は45分ほどを要した大演奏。それにしては「遅さ」を感じさせない全うと思える演奏で、崩壊の見られない美しい瞬間が頻発するものであった。第1楽章の、「伝説の音調で」と記された部分の肌を撫でるような弱音に愛を感じた。そして、コーダにおけるベートーヴェンの引用の静けさにも涙がこぼれた。第2楽章の主題旋律が左手の轟音により隠れてしまっていたこと、それによって少々音が濁っていたことが返す返すも残念ではあるが、それでもあの強烈な音響効果こそがポゴレリッチの真骨頂ゆえ納得した。さらには、第3楽章の沈思黙考する哲学的表現の恍惚・・・。堪らない。

15分の休憩を挟み、後半はストラヴィンスキーとブラームス。
ストラヴィンスキーの凄演に舌を巻いた。「ロシアの踊り」のあの有名な主題が違った風に聴こえたときは驚愕。旋律の浮き上がらせ方がまったく異なるのである。「ペトルーシュカの部屋」の何というときめきとひらめき。続く「謝肉祭の日」の様々な主題が次々に現れるシーンにポゴレリッチの天才を見た。

ブラームスの「パガニーニ変奏曲」では、ポゴレリッチはどうにもいらいらしていたようで、幾分集中力を欠くシーンが・・・。第1巻の第2変奏終了直後、譜めくり君を怒った様子で何やら囁き、その後はほとんど自らの手で楽譜をめくっていたことが印象的。その間、譜めくりストはほとんど硬直状態で、音楽についていくのが精いっぱいという雰囲気だったが、それでもこのブラームスには、あまりに人間的なポゴレリッチを垣間見ることができ、良かった。特に、第7変奏の心のこもった音楽に感動した。

最後の音を出した後、残響が消えるまで微動だにせず祈るポゴレリッチに聴衆は息を飲んだ。これでおしまいと言わんばかりに足で椅子をピアノの下に押し込め、譜めくりストの椅子をすらピアノの後方に運んだ様子に本人は不本意に感じているのかとも思ったが、聴衆のあまりの熱狂にどうやら満足しているようだった。終演後には何とサイン会が催されるということだったので気分は良かったのだろう。

今後もイーヴォ・ポゴレリッチは見逃せない。

 

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2 COMMENTS

畑山千恵子

ベートーヴェンをやった時には、どんなベートーヴェンをやるかが楽しみで行きました。とはいえ、今回は行くべきだったか。今もわかりませんね。

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岡本浩和の音楽日記「アレグロ・コン・ブリオ」

[…] 昨日、イーヴォ・ポゴレリッチを聴いて思った。 彼の生み出す音楽からは、たとえそれが標題を伴うような作品であったとしても聴く者に「何か」を一切想像させない「絶対」があった。普通ならば、作曲家が意図した背景や、あるいは彼らが創造の動機とした体験や風趣や、そういうものを知ることが、その作品を享受するのに大いなる参考になってくれるものなのだが、しかし一方で、背景というのは裏返すと足枷にもなり得、作品の捉え方、理解を小さな箱に閉じ込めてしまうということにもつながるので、音楽のイメージが一般的に固定化されてしまうということも起こり得る。そう考えると、僕たちは何も知らずにただひたすら音楽を耳にする方が幸せなのかもしれない。 あるいは聴く者に想像を与えない、否、想像を超える音楽の再生を演奏者ができたら、聴衆と奏者の関係は一期一会の、もっと白熱したものになるということなのだろうか・・・。 […]

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