クレンペラーのベートーヴェン「荘厳ミサ曲」を聴いて思ふ

beethoven_missa_soleminis_klemperer06030年という歳月を経て、ようやく「ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)」が腑に落ちた。
特に、第4章「サンクトゥス」と第5章「アニュス・デイ」の深遠さ、崇高さ。この時点(1823年3月)でベートーヴェンは完全無欠となったのだ。

昨夜、読響のコンサートでいただいた冊子に平野昭さんによる「〈第九〉の意味~〈ミサ・ソレムニス〉の対作品として~」という特集記事があり、なるほどと頷かせる見解に膝を打った。

1823年3月に完成した「ミサ・ソレムニス」第1章「キリエ」自筆譜冒頭には、ベートーヴェンの手により「心より出で、願わくば再び、人の心に届かんことを! Von Herzen – Möge es wieder – zu Herzen gehn!」と記されている。また、第5章の平和の讃歌「アニュス・デイ」の第2部(第96小節以降)の始めには「内的な、そして外的な平和への祈り Bitte um inner und äussern Frieden」とも記している。ここには宗教典礼としてのミサ聖餐式といった限られた世界を超えたベートーヴェンの本音が響いているように思われる。
~「月刊オーケストラ12月号」P26

「ベネディクトゥス」直前のヴァイオリン独奏によるオブリガードの哀惜は、ちょうどバッハの「マタイ受難曲」第39曲アリア「憐れみたまえ、わが神よ」をなぞるかのよう。

憐れんでください、神よ、
私の涙のゆえに。
ご覧ください、心も目も
御前に激しく泣いています。
憐れんでください、神よ、
私の涙のゆえに。
礒山雅著「マタイ受難曲」(東京書籍)P310-311

これほど普遍的な音楽はない。ベートーヴェンの祈りもバッハ同様全宇宙に向けてのものだった。
オットー・クレンペラーの名盤「ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)」をひもとく。

・ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)ニ長調作品123
エリザベート・ゼーダーシュトレーム(ソプラノ)
マルガ・ヘフゲン(アルト)
ワルデマール・クメント(テノール)
マルッティ・タルヴェラ(バス)
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団&合唱団(1965.9&10録音)

重厚で地に足のついた「ベネディクトゥス」に敬礼。このあまりに美しい音楽にひれ伏す。

祝福されますように、来るものが
主の名において。
ホザンナ、いと高きところにて。

続く「アニュス・デイ」に最敬礼。第1部でのタルヴェラの独唱が、合唱との応答を含め何と映えることか!
その後、いよいよ第2部「平和の讃歌」に及ぶ時の合唱と独唱の入り混じる瞬間の、まさに「ベートーヴェンの本音」!!

世の罪を除きたもう神の小羊、
われらを憐れみたまえ。
「作曲家別名曲解説ライブラリー③ベートーヴェン」(音楽之友社)P519

ところで、コジマ・ワーグナーのベートーヴェンに関する見解が興味深い。

バッハとベートーヴェンの違いを感覚的に表現すれば、バッハを聴くにはもてる力をすべて集中させなければならず、バッハについてゆくのは精神と人格にとって一個の課題を意味するのに対して、ベートーヴェンの音楽には、肩肘を張らなくとも導かれるままに没入できる。
1871年2月12日日曜日
三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記2」(東海大学出版会)P343

ベートーヴェンは自然体ということ。

やすやすとやってのけるか苦労するかは別として、ほかの作曲家たちは主題を見つけ出し、それにフーガやカノンや対旋律といった音楽的な仕掛けをつけ加えてゆくのに対して、ベートーヴェンの場合は植物全体から花が咲き出るのにも似て、音の組織全体から旋律が生れるように思える。
1871年2月15日水曜日
~同上書P349

楽聖は全体から部分を創造する宇宙人だということ。「ミサ・ソレムニス」に触れ、その通りだと思った。

 

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