ミンコフスキ指揮ルーヴル宮音楽隊のグルック「オーリードのイフィジェニー」を観て思ふ

gluck_iphigenie_en_aulide_minkowski_2011076どんな苦難があろうと、人々は神々に守られている。
いや、神々ですら「絶対」ではないのである。そもそも人格化された「神」などは空想のもので、真の神はあらゆるものの内に必ず存在するということ。ならば誰しも内なる神、すなわち良心というものにいつも耳を傾けることが大切だ。

第1幕最後のイフィジェニー(ヴェロニク・ジャンス)とアシル(フレデリック・アントゥーン)の二重唱の、互いを想う絆までもが見えるような堂々たる歌に心奪われる。そして、クリテムネステルに扮するフォン・オッターの怒りと嘆きの表情、そして一転して喜びと安堵の表情を浮かべるその巧みな演技に、歌唱だけでなく彼女のオペラ歌手としての力量を垣間見る。

幕間に休憩はなく、すべての幕がほぼ一気に奏される。
演出により、出演者たちの衣装がすべて現代の軍服姿に変えられているのには少々抵抗があるものの、何よりマルク・ミンコフスキの完璧なオーケストラ・コントロールによる颯爽たる演奏が、極めて躍動感に富み、スピード感に溢れ、しかも過剰なロマンティシズムを排除していることで、物語中の人々の心理が剥き出しにされる。
それに、興味深いのはオーケストラの配置が舞台の奥にあるところ。これによって物語と音楽が見事に一体化するのである。

ネーデルラント・オペラ2011
グルック:歌劇「オーリードのイフィジェニー」
ヴェロニク・ジャンス(イフィジェニー、ソプラノ)
アンネ・ゾフィー・フォン・オッター(クリテムネステル、メゾソプラノ)
サロメ・ハラー(ディアーヌ、ソプラノ)
ニコラ・テステ(アガメムノン、バス・バリトン)
フレデリック・アントゥーン(アシル、テノール)
マルティーン・コルネット(パトロクル、バリトン)
クリスティアン・ヘルマー(カルカス、バリトン)
ローレン・アルヴァロ(アルカス、バス・バリトン)
マルク・ミンコフスキ指揮ルーヴル宮音楽隊
ピエール・オーディ(演出)(2011.9.7Live)

何と言っても、(イフィジェニー、アシル、アガメムノンとクリテムネステルによる)四重唱と合唱による第3幕最終場面、すなわち第7場から第9場にかけての愛と幸福に満ちた歌に感動を覚える。

ちなみに、「オーリードのイフィジェニー」には2つの結末、すなわち、女神ディアーヌが、イフィジェニーを生け贄として捧げる決意をしたアガメムノンに心を動かされたことで、生け贄ではなく巫女として自分の神殿に仕えさせようと語り、ギリシャ軍の合唱で終わるものと、イフィジェニーが自ら生け贄となり全員で「いざトロイへ!」と歌って終わるものとがあるようだが、本公演では前者のパターンによっている。

ワーグナー編曲版による、イフィゲーニエをアンナ・モッフォが歌ったアイヒホルンの名盤の解説書によると、そもそも1774年の初演時のエンディングはエウリピデスの原作とは異なったもので、しかもフランス人好みにバレエまでつけ加えられていたようなので、ミンコフスキによる本公演は初演オリジナル版にワーグナーの意図を汲みこんだ折衷版ということなのだろうか?このあたりについては勉強不足で詳細を書くことができない。隔靴掻痒の思いなり。

グルックを近代オペラの開祖として尊敬し、とくに「オーリードのイフィジェニー」を彼の最高傑作のひとつとして高く評価していたワーグナーにとっては、フランス人の趣味に妥協しすぎた原曲の安易な結末がどうしても許せなかったのである。ワーグナーはまずドイツ語の歌詞にしたがってレチタティーヴォを手直しし、オリジナル版にはないアルテミス女神(ソプラノ)をフィナーレの場面に登場させて、エウリピデスの原作どおり、イーピゲネイアが女神によって遠いタウリケの神殿へと連れ去られることを明示する結末に変更した。フランス・オペラの伝統にしたがって最後の場面に加えられていたバレエがすべて削除されたことはいうまでもない。
グルック「アウリスのイフィゲーニエ」(クルト・アイヒホルン指揮ミュンヘン放送管弦楽団)DENON COCQ-84199→200解説書より

ミンコフスキの「イフィジェニー」にはもちろんバレエの挿入はない。

 

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