クレンペラーのワーグナー楽劇「ワルキューレ」第1幕を聴いて思ふ

wagner_walkure_1_klemperer085クレンペラーのワーグナーは冷徹だと先日書いた。最晩年の「ワルキューレ」第1幕を聴いてもその印象は変わらない。しかし、このいかにも枯淡の境地の、あまりに客観的な音楽の内に大いなるエロスを感じてしまうのは僕だけだろうか。
ワーグナーが(そして後にはモーリス・ベジャールも)愛と死とを「ひとつのもの」として捉え、芸術作品として昇華しようとしたことが、オットー・クレンペラーのまさにこの録音によってついに成就されたかのよう。
第3場最後の劇的なシーン。

ジークムント:
私の名はジークムント
私はまさしくジークムント、
ひるむことなく、この柄を握るぞ、
剣よ、この身の証しとなっておくれ!
日本ワーグナー協会監修・三光長治/高辻知義/三宅幸夫/山崎太郎編訳「ヴァルキューレ」(白水社)P41

「勝利の加護を受けた者」の意のジークムントだが、上記日本ワーグナー協会監修の対訳書では「名前にこれほどまでに重大な意味がつきまとうのは、自己との一体性(アイデンティティ)がそれによって保証されているから」と解かれている。なるほど、名は体を表すのだ。そして、双子の妹であるジークリンデは次のように応える。

ジークリンデ:
目交いのあなたが
ジークムントなら
待ち焦がれてきた私は
ジークリンデ、
剣もろともに
妹もあなたのものよ!
~同上書P43

さらに、ここで解説者はプラトンの「饗宴」から引用し、「自己との一体性という意味でのアイデンティティが兄妹の相互の認知を通じて獲得される」と結論する。ワーグナーの淵は真に深い。プラトンの「饗宴」をひもといてみた。

まず第一に諸君が知って置かなければならぬことは、人間の本性(原形)とその経歴である。実際原始時代におけるわれわれの本姓は、現在と同様のものではなく、まったく違っていた。第一に、人間の性には三種あった、すなわち現在のごとくただ男女の両性だけではなく、さらに第三のものが、両者の結合せるものが、在ったのである。そうしてその名称は今なお残っているが、それ自身はすでに消滅してしまった。すなわち当時男女(おめ)といって、形態から見ても名称から見ても男女の両性を結合した一つの性があったのである。
プラトン著/久保勉訳「饗宴」(岩波文庫)P78

哲学者は何をもってこのように論ずるのかわからないが、現代の僕たちには想像もつかない先見、あるいは透視的な力、直感がかつての人間には備わっていたのだろう。

さて人間の原形(フュシス)がかく両断せられてこのかた、いずれの半身も他の半身にあこがれて、ふたたびこれと一緒になろうとした。そこで彼らはふたたび体を一つにする欲望に燃えつつ、腕をからみ合って互いに相抱いた。
~同上書P80

なるほど、男と女の愛の源はこういうところにあったのか。

かくてわれわれは、いずれも人間の割符(シュンボロン)に過ぎん、比目魚(ひらめ)のように截り割られて、一つの者が二つとなったのだから。それで人は誰でも不断に自分の片割れなる割符を索める。だから、かつて男女(おめ)と呼ばれた双形者の一半に当る男達はすべて女好きである。そうして大多数の姦夫はこの種族から出たのだが、男好きな、姦通家の女達もまた同様である。
~同上書P81

恋愛感情の神秘の理由を子ども騙しと言うなかれ。

その(二つが一つに成りたいという念願)理由は、われわれの原始的本姓(原形)がこれであり、われわれが全き者であったというところに在る。それだからこそ全きものに対する憧憬と追求とはエロスと呼ばれているのである。こういう訳で、われわれは、それ以前には、前述のとおり、全一(ヘン)であった。
~同上書P83-84

かつて(神によって)一元の世界が二分され、そして今またひとつに還ろうとするこの時代に、ワーグナーはある意味救世主だ。そんなことをクレンペラーの「ワルキューレ」第1幕を聴きながら考えた。

ワーグナー:楽劇「ワルキューレ」第1幕
ヘルガ・デルネッシュ(ジークリンデ、メゾソプラノ)
ウィリアム・コクラン(ジークムント、テノール)
ハンス・ゾーティン(フンディング、バリトン)
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1969.10.22-24, 31, 11.3 & 1970.10.26-27録音)

冒頭、前奏曲から重心の低さといいテンポの緩さといいクレンペラー以外の何ものでもない。何より録音が万全で、これほど明瞭にそして美しく奏でられる「嵐」はなかなかない。それにしても、これくらいの悠々、堂々たる演奏だと、ワーグナーの書いた一音一音までもが明確に聴き取れ、いよいよ始まろうとする「裏切りと災いの物語」の不穏な前兆を音の背後に感じることができるのだから素晴らしい。これこそ老練!

コクランのジークムントの「冬の嵐を追い払い」の朗々たる歌唱(何て素敵なのだろうか)、そしてそれに応えるデルネッシュのジークリンデの「あなたこそは春」の母性溢れる歌に金縛り。

 

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