レーグナーのビゼー「アルルの女」ほかを聴いて思ふ

bizet_arlesienne_suite_rogner110ジョルジュ・ビゼーの音楽は美しい。美しいだけでなく、そこには官能がある。ワーグナーに負けず劣らず。
ニーチェは、反ワーグナーの狼煙をあげたときビゼーの名前を使った。果たしてそれがビゼーである必要があったのかどうか、それはわからない。しかしながら、19世紀末の欧州において時代を席巻していたワーグナー芸術を否定するのに、一方で一世を風靡していた「カルメン」をだしに使うのは都合が良かったのかも、そんなことを空想し、ビゼーを聴いた。

「笑うことによって厳粛なことを語る・・・」という意味深な言葉が表紙に刻まれる、ニーチェの「ヴァーグナーの場合」(1888年のトリノ書簡)序言には次のようにある。

私はここでいささか肩の荷をおろすことにする。私がこの著作のうちでヴァーグナーを犠牲にしてビゼーを讃えるのは、たんに純粋の悪意であるのみではない。私は多くの冗談のうちから、冗談ごとではない一つの事柄を持ちだす。ヴァーグナーに背を向けるということは、私にとっては一つの運命であった。
ニーチェ全集14「偶像の黄昏・反キリスト者」(ちくま学芸文庫)P285

ここには「覚悟」がある。と同時にワーグナーに対してではなく、哲学者としての自己への痛烈な批判が宿る(ように僕には思える)。
引き続き、ニーチェは次のようにも書く。

哲学者が最初にして最後におのれに求めるものは何であろうか?おのれの内なるその時代を超克すること、「無時代的」となることである。それでは彼は何とそのこのうえなく苛烈な死闘をまじえるのか?まさしく彼がその点で時代の子であるそのものとである。よろしい!私もヴァーグナーと同様この時代の子である、と言ってよいなら、デカダンであるが、ただ私はこのことをわきまえていた、ただ私はこのことに対して抵抗した。私の内なる哲学者がそれに対して抵抗したのである。
~同上書P285-286

ワーグナーを攻撃しながら、ほとんど相撃ちのようにニーチェはそれまでの自己を葬り去る。ここにあるのは醜悪な自己弁護であり、その際に引合いに出したのがたまたまビゼーであったに過ぎない。興味深いのは、100年以上を経過した21世紀において、ワーグナーも「カルメン」も、そしてニーチェの著作自身も「時代を超克し」、「無時代的」となっていることだ。

ビゼー:
・「アルルの女」第1組曲
・「アルルの女」第2組曲
・組曲「子どもの遊び」作品22
・組曲「美しきパースの娘」
ハインツ・レーグナー指揮ベルリン放送管弦楽団(1974.5録音)

旧東ドイツの誇るドイツ・シャルプラッテンの名録音。「カルメン」同様「アルルの女」もエキゾチックな名旋律の宝庫。レーグナーの、ドイツ的堅牢な解釈に、ニーチェがビゼーに求め、見出したものとは正反対の「美」を発見する。

私は、ビゼーの管弦楽の音色こそ、私がいまなお持ちこたえるほとんど唯一のものであると言って差しつかえなかろうか?
~同上書P288

この音楽は私には完全なものと思われる。それは、軽やかに、しなやかに、慇懃にやってくる。それは愛嬌があり、それは汗をかくことがない。
~同上書P288-289

劇付随のBGM的音楽が、見事に交響曲のように鳴り響く。それでもレーグナーには愛嬌があり、軽快さがある。この頃の彼は秀逸だった。

 

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