マゼール指揮ウィーン・フィルのマーラー交響曲第3番を聴いて思ふ

mahler_4_maazel_vpo1911年12月初めのベルリン王立管弦楽団のコンサートのためにリヒャルト・シュトラウスがプログラミングしたのは、グスタフ・マーラーの交響曲第3番ニ短調だったわけだが、それは何と結果的に同年5月に亡くなった彼の友への追悼となった。果たしてそれはどんな演奏だったのか。

マーラーが作曲当初付していた各楽章のタイトル(後に削除されたが)に、後にワーグナーの再生論に傾倒し、ある意味神を捨て、自然に還ろうとした作曲者の深層心理が、実はすでに1890年代の初頭に芽生えていたであろうことが伺え、とても興味深い(この時期はさすがに神への信仰は深かったよう)。

第1楽章:パンが目覚める。夏がすすみくる。
第2楽章:牧場で花が私に語ること。
第3楽章:森の獣たちが私に語ること。
第4楽章:夜が私に語ること。あるいは人が私に語ること。
第5楽章:朝の鐘が私に告げること。あるいは天使が私に語ること。
第6楽章:愛が私に語ること。
第7楽章:子どもが私に語ること。

自己と大自然、宇宙との対話こそがマーラーの真意なのか。うち、第7楽章は交響曲第4番の終楽章に転用されることになったのだけれど。
ちなみに、交響曲第3番作曲の時期、マーラーは恋に深く落ちていた。アンナ・フォン・ミルデンブルク宛ての熱烈な手紙を読むと、恋というものがいかに創造活動に影響を与えたかが理解できる。

仕事のことでいくつか書き忘れた―スケッチはもう届いた、だからこの夏に何をまとめられるか、みてみなくては。いっかな捗らない、それほど気が散ってしまっている。今日は一日中南風。天気が悪くなるのに、でも僕には嫌な気がしない。君の息の片鱗たりとも運んできてくれるのだと思えばこそだ。
1896年6月20日土曜日付アンナ・フォン・ミルデンブルク宛
ヘルタ・ブラウコップフ編/須永恒雄訳「マーラー書簡集」(法政大学出版局)P168

自然と対峙し、自然を描きながら、あまりに人間っぽい感情の坩堝たる作品。

「愛が私に語ること」を君は知りたい?いとしいアンアネル、愛は僕にとてもいいことを語ってくれるよ!そしていま愛が僕に語るときはいつも、いつも君のことを語るのだ!―だが交響曲の中ではね、いとしいアンニ、そこではまた君が思っているのとは別の愛が問題なのだ。この楽章(第7番)へのモットーはこうなる―「父よ、わたしのこの傷をご覧ください!いかなる生きものたりとも見放さないでください!」
これでわかった?心の恋人よ、ここでなにが問題なのか?―ここでは世界を眺める頂上が、至高の段階のことがいわれているのだよ。「神がわたしに語ること!」と名づけてもいいくらいだ。神は「愛」としてのみ理解しうるという意味でね。
1896年7月1日水曜日付アンナ・フォン・ミルデンブルク宛
~同上書P176

「第7番」というのは第6楽章の誤記であるが、それにしても作曲者自身の語るモットーが意味深い。

マーラー:
・交響曲第3番ニ短調
・亡き子をしのぶ歌
アグネス・バルツァ(メゾ・ソプラノ)
ウィーン少年合唱団
ウィーン国立歌劇場女声合唱団
ロリン・マゼール指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1985録音)

すべては愛によって包含される。マゼールの終楽章冒頭チェロの天上的な美しさに幸福を覚える。引き摺るようなテンポに、そっと囁くような弱音の愛撫、そして時に咆哮する音楽のうねり、どの瞬間もまるで生きもののよう。これこそ「世界を眺める頂上」なり。

続く、アグネス・バルツァを独唱に迎えた「亡き子をしのぶ歌」のこれまた温かい美しさ!!

ピエール・ブーレーズ&ウィーン・フィルの録音をあわせて聴いてみたが、ブーレーズの常の精緻で客観的な演奏は、確かにマーラーの音楽の全体像を聴き手にわかりやすく提示してくれるものだけれど、青年マーラーの燃えるような恋心までスポイルされてしまっているようで少々物足りなく感じられる。
マゼール&ウィーン・フィルのマーラー全集はやっぱり侮れない。

 

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