マゼール指揮ベルリン・フィルのラフマニノフ交響曲第2番を聴いて思ふ

rachmaninov_sym_2_maazel_bpo2181980年代のロリン・マゼールの演奏は特に素晴らしいと思う。
時にデフォルメあり、挑戦的な解釈を持ち込むマゼールだが、彼のウィーン・フィルとのマーラー全集然り、実に自然体で美しい音楽が眼前に繰り広げられ、それを耳にする僕たちはいつも幸せの心境に誘われる。
例えば、1982年にベルリン・フィルと録音したラフマニノフの交響曲第2番。決して粘着質に陥らず、テンポが速めの即物的解釈であるが、歌に満ち、ロシア的浪漫と憂愁が見事に反映された名演奏。

40年以上前の、若きマゼールについての吉田秀和さんの評には次のようにある。

マゼールの《音楽》も、もちろん、これからだっていろいろ変わることもあるだろう。しかし、あすこには《一人の人間》がいるのである。あすこには、何かをどこかからとってきて、つけたしたり、削ったりすれば、よくなったり悪くなったりするといった、そういう意味での《技術としての音楽》は、もう10歳になるかならないかで卒業してしまった、卒業しないではいられなかった一人の人間の《音楽》があるのである。
吉田秀和全集5「指揮者について」(白水社)P134

マゼールの音楽の「ありのまま」であることをいみじくも語る吉田さんの言葉に膝を打つ。そして、彼のバッハの優れた点をいくつか挙げ、次のようにも言う。

もっと端的に、マゼールという人物の音楽の基本がラテン的なものに根ざしていることを示すものだといったほうが、そもそも正確でもあれば、手っとり早くもある、というべきなのだろう。
~同上書P137

堅牢でゲルマン魂の権化ともいえるバッハをラテン的なパッションを伴って演奏したことが若きマゼールの天才だとするならば、おそらくこの小論の10数年後に演奏されたラフマニノフの交響曲の場合にも同じことが言えるのでは?
一聴淡々と奏される音楽の内側に赤裸々な隠れた情熱が僕には聴こえるのである。

ラフマニノフ:
・交響曲第2番ホ短調作品27
・歌劇「アレコ」~間奏曲
・ヴォカリーズ作品34-14
ロリン・マゼール指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

マゼールは厳然たる姿勢で、確信を持って音楽を突き進む。第1楽章主部アレグロ・モデラートも一見冷静沈着な音楽が流れるが、やはり内なるパッションは大きい。
そして、第2楽章スケルツォの、コーダに向けての勢いこそラテンの象徴。さらには、第3楽章アダージョの得も言われぬ恍惚感と必要以上の哀しみを投影せぬままに涙に濡れる表情に、かつて精神を患ったラフマニノフの人間への永遠なる愛を想う。マゼール指揮するこの音楽は随一といって良い。
また、終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェのロシア的熱狂は「何も足さず、何も引かず」の大いなる熱演。ここには吉田さんのいう「一人の人間」が間違いなく在る。

付録の「アレコ」間奏曲も「ヴォカリーズ」も実に美しい。

 

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