駆け引きや遠回しの言い方ではなく、あくまで直接に、すなわちストレートに。
人が素直になるときに生じる変化と成長。年齢や性別や、あるいは社会的立場や、そういうものを超えてつながるときに起こる奇蹟。
原点に戻る日だと思った。
自作の改訂を中心とした紆余曲折を経て、アントン・ブルックナーが行き着いた最後の境地。作曲家自身が作品を神に捧げることを表明したように、ここには未完成であるがゆえのあまりに人間らしい弱さを秘めた崇高さが存在する。
だからこそ、至純の、人間っぽさを感じさせない演奏よりも、もっと人間臭い、時に荒れ狂う表現こそが相応しいのかもなどと、オイゲン・ヨッフムが1960年代に録音したものを聴いて想像した。
35年前、僕が愛聴していた演奏。
ちなみに、ギュンター・ヴァントの最後の来日公演でのそれを聴いて以降、少なくともこの交響曲に関しては僕の中では打ち止めとした。「人間を感じさせない」という意味で、以来、あれ以上のものはもちろん聴いていない。
実演では唯一無二、おそらく今後もあれを凌駕するものはなかなか出まい。別格なのである。
しかし、だからこそブルックナーにおいても原点に戻るんだ。
時に過剰にテンポが動き、そして少々恣意的な「間」が置かれる動的な演奏に、あらためて新鮮さを感じるのだから、面白いもの。
・ブルックナー:交響曲第9番ニ短調(ノーヴァク版)
オイゲン・ヨッフム指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1964.12.5録音)
完璧なアンサンブルと、指揮者の解釈を見事に音化するオーケストラの力量がものをいう。
ベルリン・フィルのパワーが炸裂する。
最も安心して聴けるのが、終楽章アダージョの、いつ果てるとも知らぬ夢見心地の弦の響きと呼吸の深い金管の慟哭の調べ。
もはや言葉を尽くしても語り切ることのできない至宝。
ヨッフムの音楽は50余年を経ても色褪せない。
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