オレグ・カエターニ指揮東京都交響楽団第791回定期演奏会Aシリーズ

caetani_tmso_20150629245失意の下、寂しさをしのぐための一時的なロマンスというのは終わりも早い。
最初の妻ニーナが亡くなって間もなく、マルガリータ・カーイノヴァとの結婚生活はわずか数年。
実際、精神的どん底体験や充たされない時というのは、どんな天才も創造力は衰えるものなのだろうか。
1950年代のドミトリー・ショスタコーヴィチは、公的栄誉と地位が頂点を迎えていたにもかかわらず、生み出した作品はいかにも体制に迎合するようなものが優位を占めていた。
しかしながら、同時期に作曲された交響曲第11番ト短調作品103「1905年」は、彼の作品の中でも特筆すべきものだ。
公には1905年の「血の日曜日事件」を題材にしたこの作品は、実は前妻ニーナを悼むためのものであり、そして寒々としたマルガリータとの結婚生活に終止符を打つべく抑圧されていた感情の解放と、創造力の再燃を目的とし、作曲者がまるで絵画を描くように創作したものなのではなかったのかと、オレグ・カエターニ指揮する東京都交響楽団の実演を聴いて空想した。

長身で精悍な印象のカエターニの指揮は、緻密かつ丁寧で、情熱的。さすがにイーゴリ・マルケヴィッチの息子だけあるのか、舞台姿も堂々たるもので板につく。第1楽章「宮殿前広場」冒頭から、静謐なオーケストラの響きに深い祈りの感情が垣間見え、この人がいかにショスタコーヴィチの音楽を信奉しているのかが手に取るようにわかった。第2楽章「1月9日」における、オーケストラの狂気錯乱的咆哮も実に魂がこもり、どんなに大音響になろうとも無機的にならず、むしろ常に冷静さを失わない圧倒的音楽に満ち溢れていた。この楽章の途中で指揮棒が真っ二つに折れ、弾け飛んだのが見えたが、そんなことは意にも介せず、短い棒を持って無心にぐいぐいとオーケストラを引っ張るカエターニの熱い技量に感動で身体が硬直したほど。
そして、第3楽章「永遠の記憶」における革命歌「同志は倒れぬ」のあまりの美しさに、これこそ革命に立ち上がって亡くなった同志への哀歌というより、もっと個人的な、そう、亡き前妻へのオマージュ的な、作曲者の意志の投影を僕は思った。とても不思議なことなのだけれど。ちなみに、ここにはまた、ベートーヴェンの「英雄」交響曲の「葬送行進曲」も木霊していた。
さらには、終楽章「警鐘」冒頭の、革命歌「圧制者よ、激怒せよ!」に基づく管楽器による主題の強烈な響きに度肝を抜かれ、都響の前のめりの勢いあるアンサンブルに卒倒した。コーダ直前のイングリッシュホルンによる第2楽章の哀愁の調べに涙し、コーダの激しく打ち鳴らされる鐘と打楽器のうなりに前後不覚。
速めのテンポで一気呵成に進められた音楽の猛威とでも表現しようか。オレグ・カエターニのショスタコーヴィチの何という灼熱。素晴らしかった。

東京都交響楽団第791回定期演奏会Aシリーズ
2015年6月29日(月)19時開演
東京文化会館
矢部達哉(コンサートマスター)
オレグ・カエターニ指揮東京都交響楽団
・ブリテン:ロシアの葬送
・タンスマン:フレスコバルディの主題による変奏曲
休憩
・ショスタコーヴィチ:交響曲第11番ト短調作品103「1905年」

20世紀の作品を並べた、音の色彩の多様さを強調する見事なプログラミング。12人の金管楽器奏者と打楽器奏者によるブリテンの「ロシアの葬送音楽」は、ショスタコーヴィチも引用した革命歌「同志は倒れぬ」を主題とする実に崇高な音楽。音は決してうるさくならず、都響のアンサンブルの秀逸さと個々の奏者の巧さが光るとてもバランスの良い演奏だった。
そして、ふくよかでまろみのある重厚な管の響きを堪能した後の、清廉な弦楽オーケストラによるタンスマンの「フレスコバルディ変奏曲」の終始祈りに満ちる音調に痺れた。
そもそもフレスコバルディの美しい旋律によっているのだから音楽が下品になることなどありえないのだが、それにしても第5変奏のなだらかな美しさに感動し、何よりその後のフーガの幻想性に舌を巻いた。
また、最後に主題が還ってくる瞬間の恍惚感といったら・・・。

オレグ・カエターニの実演に初めて触れ、思った。
この人は、今後も決して見逃してはいけない指揮者だと。

 

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