コーガン&モントゥーのハチャトゥリアン:ヴァイオリン協奏曲(1958録音)を聴いて思ふ

khachaturian_kogan_monteux246一見唐突な構成ではあるが、独自の統一感を持った作品である。第5番に連なるような、伝統的スタイルによる傑作を期待した聴衆のなかには裏切られたと感じた者も少なくなかったが、新たな批判事件には至らなかった。
ユーラシア・ブックレットNo.91梅津紀雄著「ショスタコーヴィチ―揺れる作曲家像と作品解釈」(東洋書店)P22

戦争勃発直後に勝利を祝して書かれた第7番とは対照的に、

戦況が好転しつつあったときに戦争について哲学的に考察したかのような、しかもいくらか難解な語法による作品が、第7番の延長のような作品を期待していた聴衆を当惑させたことは想像に難くない。
~同上書P26

ショスタコーヴィチの交響曲第6番、及び第8番についての梅津紀雄氏の小論からの抜粋である。
大衆というのは極めて勝手なもの。モーツァルトの時代から、どちらかというと保守的、旧態依然としたものを好み、作曲家の冒険的試みに対しては大いに反発する。新しいものをもとめながら、である。
しかし、本来文化が発展していくためには創造者が常に革新を生み出さんとするエネルギーに溢れておらねばならない。にもかかわらず、いつの時代も天才たちはその活動時期には得てして認められないという事態。何という矛盾。

僕たちが現代耳にし得る音楽作品は、かの時代には正当な評価を得られなかったものが多い。一方で、その当時から絶賛を浴びるものも数多。果たして何が違うのか考えてみた。あくまで独断的推測だが、大衆にわかりやすい前提は、古典やよく知られた旋律の引用が多いこと、あるいはよく知られた音楽の木霊が聴こえるということ。

独ソ不可侵条約調印後、そしてドイツが約束を一方的に破棄し、ソヴィエトに侵攻する前に書かれたアラム・ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲。時代の空気を吸ってかどうなのか、音調は実に平和的で愉悦に満ちる。その上、レオニード・コーガンの独奏が、いかにも峻厳でありながら、作曲家の祖国愛を見事に表現していて、繰り返し聴きたくなるほど何とも心地良い。
第1楽章アレグロ・コン・フェルメッツァ冒頭の管弦楽に導かれ奏される緻密なヴァイオリン独奏の躍動感。第2楽章アンダンテ・ソステヌートの慈愛豊かな静けさと安らぎ、そして第3楽章アレグロ・ヴィヴァーチェにはチャイコフスキーの協奏曲が美しく木霊する。

・ハチャトゥリアン:ヴァイオリン協奏曲ニ短調
・サン=サーンス:ハバネラ作品83
レオニード・コーガン(ヴァイオリン)
ピエール・モントゥー指揮ボストン交響楽団(1958.1.12-13録音)
・ショーソン:詩曲作品25
・サン=サーンス:序奏とロンド・カプリチオーソ作品28
ダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)
シャルル・ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(1955.12.14録音)

chausson_oistrakh_munch247コーガンとオイストラフという、ソヴィエトの誇る対照的な二大ヴァイオリニストのサン=サーンスが聴けるというのもこの音盤の特長。いかにもモダンでギリギリまで甘さを削ぎ取ったコーガンの「ハバネラ」に畏怖を覚え、甘美で豊饒なオイストラフの「序奏とロンド・カプリチオーソ」に言葉を失う。
そして、何よりオイストラフ奏するショーソンの「詩曲」の妖艶で濃厚な響きに感激。ここではミュンシュ&ボストン響も見事な伴奏で、すべてが一体となって「音のドラマ」が構築される。

名作というのはやはり時間と空間を超える。
天才は(無意識に)未来を見据えて革新を起こすのである。

 

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