シゲティ&ワルターのベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲(1947.4.5録音)を聴いて思ふ

beethoven_szigeti_walter_nyp268古の巨匠たちによる協演は一切の不要なものが削ぎ落とされ、音楽の真実だけを浮かび上がらせるという意味で貴重。それは、本人たちが意図したこととは別の次元で音盤に刻印された、現代に生きる音楽愛好家たちのための心のオアシスともいうべきものである。

速めのテンポで筋肉質の引き締まったフォルムと、それに対してヴァイオリン独奏のいかにも枯淡の境地ともいうべきしわがれた音色の根底に流れる滋味。
例えば、ヨーゼフ・シゲティがブルーノ・ワルター&ニューヨーク・フィルハーモニックをバックに録音したベートーヴェンの協奏曲の、どの瞬間をとってもお世辞にも色気のあるとは言えない、それでいて惹き込まれる技の妙味と言えば良いのかどうなのか、これほど崇高さ溢れる演奏はあまり聴いたことがない。
第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポにおいてシゲティは僕たちに懸命に語りかける。もともと技巧派とは言えないこの人のヴァイオリンが、火を噴く如く訴えかけてくる異様な音調に、ワルターとのコラボレーションが何かしらの刺激を巨匠に与えたのか、古い録音を超えて真に迫るものがある。
ヨーゼフ・ヨアヒムによるカデンツァの相変わらずシゲティらしい峻厳な響きに思わず快哉を叫ぶ。感情のすべてを切り詰めたときに人間の内側に残る魂の叫びとでも表現すべき、思わず正座をしたくなるようなベートーヴェンにため息が出る。
そして、第2楽章ラルゲットにも、ベートーヴェンの包み隠すことのない本心が見事に音化される。何より、ここには「すべてがつながりの中にある」という作曲家の全体観から出でた創造力の妙が発揮され、それをシゲティの決して美音とは言えないヴァイオリンがワルターの大いなる庇護をもって実に美しく奏でるのである。
さらに、終楽章ロンド、アレグロも愉悦とはほど遠い厳しさを醸す。

私のいつもの作曲の仕方によると、たとえ器楽のための作曲のときでも、常に全体を眼前に据えつけて作曲する。
(詩人トライチュケに)
ロマン・ロラン著/片山敏彦訳「ベートーヴェンの生涯」(岩波文庫)P136-137

私は作曲が一度でき上がると後からこれを修正するという習慣を持たない。私が決して修正しないのは、部分を変えると全作品の性格が変わるということは真理だと悟ったためである。
(エディンバラの出版社ジョージ・トムスンに)
~同上書P138

部分は全体の内にある。
その当り前のことをベートーヴェンは自ら実践し、大いなる音楽に託した。

・ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61(1947.4.5録音)
ヨーゼフ・シゲティ(ヴァイオリン)
・メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64(1945.5.16録音)
ナタン・ミルシテイン(ヴァイオリン)
ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

一方のメンデルスゾーン。ナタン・ミルシテインの音色は実に瑞々しい。
快速のテンポで運ばれる音楽の美しさと喜び。このヴァイオリニストは第2楽章アンダンテもあっさりと進めるが、その分ワルターは心を込めて歌う。同様に終楽章アレグレット・ノン・トロッポ―アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェのあまりにあっけなく流れる音楽においてもワルターは決して手綱を緩めない。このあたりは指揮者のサポートの比類なさを感じさせるところか。
シゲティの音と比較すると一聴瞭然であるが、しかし、だからといって優劣をつけることは僕には不可能。いずれもワルターの「柔和さ」と「芸術性」が光る名演奏であると思う。
それに、いずれも1940年代の録音とは思えない音質の良さ。

 

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