テン=ベルク&クーベリックのフルトヴェングラー「交響的協奏曲」(1963.6.27Live)を聴いて思ふ

furtwangler_then-bergh_kubelik271フルトヴェングラーは自身を指揮者というより作曲家として標榜していたが、その作品はあまりに長大なもの、否、冗長なものが多く、頻繁に聴くのにどうにも適さない。残念なことに、いかに彼の(再生する)音楽を愛する者でも集中力が持たないのである。
魅力的な旋律、楽想は随所には現れる。しかし、それは極めて頭脳的に過ぎ、ひらめきや直感の発露が驚くばかりに薄められている。おそらく作品の長さを半分、いや、3分の2に凝縮しただけでも随分印象は変化したのではないか、そんな風に僕は思う。

フルトヴェングラーは「音と言葉」という1938年発表のエッセイでかく語る。

かくて、音楽と詩とは、―あの驚くべき芸術作品のおかげで、充分一時的に結合する力を持ちうることが証明されたのです。―がやはり、それらをその最後の決定にまで追究していってみると、それらは2つの相異なった力であり、それぞれ独自の方法で同じことを発言しようとします。言わば同じ一つの要素から成る異なった2つの集合状態とでも言いましょうか。それらは同時に溶解しあうことはできません。―しかもこの両者はいずれも同一の質から成り立っていることに変りはないのです。
フルトヴェングラー著/芳賀檀訳「音と言葉」(新潮文庫)P230

驚くべきは、ここでフルトヴェングラーがワーグナーを引き合いに出し、この天才が「音楽と詩」両者を統合したことは大変な偉業であることを認めつつ、以降、純粋音楽の意味やそれを創出する能力を衰退させた張本人でもあると暗に批判しているところである。

その上で面白いのは、音楽と詩の統合は不可能だとしつつも、フルトヴェングラー自身は作曲活動においてどこかその統合を目指している様子が感じとれることと、にもかかわらず、生まれ出た作品はあまりに「詩的」というか「言語的」に偏り過ぎるきらいがあり、決して純粋音楽的でないこと。
これこそがこの人の作曲家としての弱点なのではないかと僕は思う。

その人の思考は言うまでもなく文章に現れる。
確かにフルトヴェングラーの文章は言い回しも冗漫で、少々難解だ。

・フルトヴェングラー:ピアノと管弦楽のための交響的協奏曲ロ短調(1954改訂版)
エリック・テン=ベルク(ピアノ)
ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(1963.6.27Live)

ただし、エトヴィン・フィッシャーとの正規録音が残っている交響的協奏曲の第2楽章だけは「冗漫さ」を超え、心に迫る深い思念が刻印される。何度聴いても飽きない美しさに満ちるのである。

生前の作曲者が評価したといわれるテン=ベルク&クーベリックのコンビによる演奏も、やはり第2楽章が白眉。管弦楽の仄暗い響きを伴奏に、静かに囁き語るように歌うピアノの音色に思わず唸る。頂点に向かって突進する様と、その後の終結に向けての憂愁との対比。ここには思考と感性のバランスを得た見事なフルトヴェングラーがある。

 

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1 COMMENT

畑山千恵子

私もこのCDを買って、聴きました。何しろ長い、長い。聴くだけでも大変な作品です。第2楽章だけでも聴く価値があるというだけでしょうか。

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