朝比奈隆指揮大阪フィルのブルックナー交響曲第1番(1994.5録音)を聴いて思ふ

bruckner_1_asahina_osaka_1994274何よりバランスに優れることが大事。
足すことも引くことも不要で、ただあるがまま。
大仰になることなく、しかし決して軽々しいものでもなく、アントン・ブルックナーが自身の最初の交響曲と認めたハ短調の交響曲は、聴けば聴くほどその新鮮な響きに驚嘆し、味わいが深くなる。
特に、第2楽章アダージョは、この人の他の作品同様自然との一体化が顕著で、これほど身体に優しく心に癒しを与える音楽はないのではと思わせるほど。例えば、コーダでの音楽の爆発に勇気をいただき、すぐさま静けさへと移ろう楽の音の妙に感心。
そして、野人が跳ねる第3楽章スケルツォの、堂々たる音響と喜びに満ちる旋律に心躍り、トリオのホルンの透明な音色に精神の鎮まりを覚える。スケルツォ再現を経て、コーダのティンパニのロールをバックに高鳴る金管群の調べに壮年期のブルックナーの希望を垣間見る。

機械と唯物主義の時代にありながら、彼の精神的態度にはドイツ神秘説の素朴な力がみなぎっており、彼の心の奥底に潜む熱情を輝かせている。「感覚的夢想者」(カント)は、彼の「聖なる内的王国」を明示しており、「神の司祭」(J.ベーメ)は、彼の現実離れした世界観―それはまだ山を移すことができるという信仰に霊感を得、豊かに湧き出る「ゲルマン哲学」の精神に満たされている―を予告している。
(ロベルト・ハース/井形ちづる訳「ブルックナーと神秘説」)
「音楽の手帖ブルックナー」(青土社)P183

そう、ドイツ神秘説か否かはともかくとし、ハースが言う「素朴な力」に漲ることは言うまでもない。そして、その精神を見事に音化したのが遠く離れた極東の朝比奈隆その人であったことが実に興味深い。

・ブルックナー:交響曲第1番ハ短調(ハース版)
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(1994.5.15-17録音)

終楽章は、さすがに後の作品と比較して引けを取るが、それでも果敢に挑戦しようとするブルックナーの意志と、森羅万象と交錯するこの人ならではの音楽が明示されており、ブルックナーが稀代のシンフォニストであったことを物語る。

朝比奈隆はかつてインタビューに応え、次のように語っている。さすがにうまいことをおっしゃる。

そう、作為がない。こんなのでいいのかしらん、とこちらが心配するほど作為がない。まあ文学でいえば、意味はわからないけれど聞いてると快い、そういう詩がありますわね。文字を解釈したところでたいした意味はないんだろうけど、詩として自然に耳に入ってくる。音楽というのは、本来そうあるべきなんですね。音楽にいろんな観念がまつわりついているのはおかしいわけで、あの人の音楽は、バッハとかベートーヴェンのように完成されたものから、古典時代の複雑な構成で完成されたものから、もういっぺん、何か原始的な状態に戻ったみたいな音楽ですね。
(朝比奈隆―インタビュー「ブルックナーの世界」)
~同上書P146

あらためて第1楽章アレグロに戻る。スキップする如くの第1主題はもとより、いかにも宇宙と共鳴する第2主題の金管の咆哮に感動。
素晴らしいのは展開部で、3つの主題が織り成す構成美にブルックナーの天才を思う。
再現部の行進も堂に入る。

この時期になるとかつての大阪フィルの「東京定期」での数々の名演奏を思い出す。
そういえばこのオーケストラの実演に触れなくなって久しい。

 

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