フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルのヒンデミット「世界の調和」ほかを聴いて思ふ

strauss_hindemith_furtwangler_vpo_1953288音楽そのものは実に精緻な秩序に基づいて書かれているのに、実際に音にすると複雑怪奇。まさにこの世界そのもの。
~2015年8月5日付朝日新聞夕刊

パウル・ヒンデミットの交響曲「世界の調和」を評しての指揮者秋山和慶氏の言葉である。実に的を射た、うまい表現。
ヒンデミットに限らず、時代が新しくなるにつれ、特に20世紀に入っての音楽界は、調和とは正反対の状況に突き進む世界への警告という意味合いがあったのかどうなのか、あるいはそういう人々の思考が「世界の鏡」となるべくそのまま反映されるかのように、創造行為そのものが混沌とした方向に行くことを良しとしたのか、それはわからないけれど、音楽は決して耳触りの良いものではなくなっていった。
クラシック音楽が衰退し、ポピュラー音楽にとって代わられる事態も、そういう背景が根底にれっきとあるのだろう。

「世界の調和」は、おそらく実演で触れてみないとその真価はわかり得ないだろうが、それでもものすごいエネルギーを内包した、その名の通り「すべての一体」を謳う作品なのだとあらためて思う。

ナチスから「退廃音楽」呼ばわりしたのは、彼がユダヤ血統であったからに他ならない。その前衛性やエロティシズムという意味においては、かのリヒャルト・シュトラウスに比して及びもつかないほどのものなのだから。
フルトヴェングラーは1934年の「ヒンデミットの場合」という、作曲者擁護のための小論でかく語る。

これ(歌劇「毎日のニュース」)を創作した頃のヒンデミットは、いったい、まだ作曲家になるのか、どうか、全然見当がついていませんでした。しかもこの一幕ものの中の一つは、非難されているその性的倒錯において、―ほかに較べようもありませんが、―円熟した巨匠シュトラウスの「サローメ」を凌駕するほどのものでしょうか?誰がしかし「サローメ」について、―その総譜のゆえにリヒャルト・シュトラウスを拒否する者があるでしょうか?徳のそれは、―ヒンデミットの場合にしても、シュトラウスの場合と同様―この種のセンセーションを要望した作品発生当時の時代的季節のゆえでしょう。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー著/芳賀檀訳「音と言葉」(新潮文庫)P185

人が歴史を作るということは確か。しかし、時代や環境が人を作るというのも真なのである。ヒンデミットその人の、社会に対抗する信念が「世界の調和」たる作品を生み出したことは間違いない。

・R.シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」作品20
・ヒンデミット:交響曲「世界の調和」(1951)
・シューベルト:交響曲第9番ハ長調D944「ザ・グレート」
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1953.8.30Live)

フルトヴェングラー最晩年の、残暑極まるザルツブルク音楽祭ライブ。
シュトラウスの「ドン・ファン」のまろやかな響きにうっとりする。まろやかでありながら、決して柔ではなく、質実剛健を絵に描いたようなポエム。フルトヴェングラーの再現は、僕たちのイマジネーションをとことん喚起する。
そして、ヒンデミットの「世界の調和」における、壮絶かつ異様な音響の爆発の裏に読みとれる、その字の如くの「調和」。これこそ音楽を通してフルトヴェングラーが追求していたものの現出であり、秋山氏の言うような「複雑怪奇さの中でこその精緻な秩序」が発見できるのである。

第1楽章「楽器の音楽」の、恐怖映画の伴奏の如くのおどろおどろしさはフルトヴェングラーならでは。これほど熱のこもった有機的な音楽はない。
続く第2楽章「人間の音楽」のカオスと終結部の静寂こそヒンデミットが世に最も問いたかったものではないのか?そのことをフルトヴェングラーの棒が見事に物語る。
そして、終楽章「天体の音楽」での解放は、特に冒頭で奏される金管の雄渾な旋律は、正義とは何で、人々が今後どのように行動しなければならないのかを訴えかけるよう。
ここにもシュトラウス同様見事なポエムがある(またヤナーチェクの木魂も聴こえる)。
シューベルトについてはまたいつか。

 

ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。


音楽(全般) ブログランキングへ


1 COMMENT

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む