フルトヴェングラー指揮ミラノ・スカラ座管のワーグナー「神々の黄昏」(1950Live)を聴いて思ふ

wagner_gotterdammerung_furtwangler_lascala317リヒャルト・ワーグナーの言葉は真に重い。
現実生活においては多くの問題を抱えていたこの人の頭の中に在った「真実」を目の当たりにするにつけ、かの天才はベートーヴェンに次ぐ音楽史における救世主であったように僕には思えてならない。混迷する現代世界を救えるのは一人一人の脳が開かれることが条件であるが、それには各人が自然(太陽と月と)と一体となり、心を解き放ち真に自由になることが必須だ。

「未来の芸術家像―コミュニズムの原理によせて」と題する小論(1849年)には次のようにある。

自然に対立する人間は恣意的であり、そのために自由でない。自然と敵対し、恣意的に抗争しているところから人間のすべての誤謬(宗教や歴史における)は生じた。人間は自然現象に現れた必然性、それと自分自身とのあいだの切っても切れない関係を了解し、自覚し、その法則にしたがうことで初めて自由になれるのだ。芸術家の生に対する関係もそれと同じことで、生の必然性を理解してこそそれを表現する道も開けるのである。そうなるとあれこれ選択する余地はなくなるわけだが、それでこそ自由かつ真実な境地に達したことになるのだ。
ワーグナー著/三光長治訳「友人たちへの伝言」(法政大学出版局)P245

ここにすべての答が含まれると思うのだが、何より解決方法をコミュニズムに求めたことがワーグナーの読みの甘かったところだろう(とはいえ、マルクスが実際に考えていたものとレーニンによって打ち立てられた現実のそれとは随分乖離があるそうだから、理論上は確かに正しいのかもしれないが)。

なるほど彼の作品を解釈する上で、人間臭さを従えた恣意性こそが最大の問題となることも理解できないではない。実際、フルトヴェングラーのワーグナーはそのドラマティックな音楽に魅力があるものの、全体像が矮小化する傾向にあることは否めない。

フルトヴェングラーが1941年に発表した「ワーグナーの場合」という論文をひもとく。

彼は決してひとりただ作品によって、また作品のために効果を出そうとねらったのではありません。それらをはるかにつき抜けたところをねらっていたのです。彼は人間を強制し、あらゆる方法に訴えて変貌させ、感動させ、彼らをその苛烈さと無慈悲から、功利的な密封と分裂から解放しようとしました。作品は実に驚くべき巨大な要望を投げかけました。が、この人の提出した要望はさらにそれを凌駕する巨大なものでした。彼を仕事にかりたてたものは、いったい何だったのか、本当につきつめてみたいものだと思います。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー著/芳賀檀訳「音と言葉」(新潮文庫)P144-145

「つき抜けたところ」、「凌駕する巨大なもの」という言葉から、フルトヴェングラーはワーグナーの真意については深層でわかっていたのだと思う。しかし、論にある通り、作曲家を仕事に駆り立てたものが一体何だったのか、それが理解し切れなかったところ、すなわち「人間=恣意性」という枠を超えられなかったところが、良くも悪くもフルトヴェングラーのワーグナー解釈のすべてだったのだと腑に落ちた次第。

1950年、ミラノ・スカラ座での「神々の黄昏」を聴いた。

・ワーグナー:楽劇「神々の黄昏」
キルステン・フラグスタート(ブリュンヒルデ、ソプラノ)
マックス・ローレンツ(ジーククリート、テノール)
ルートヴィヒ・ウェーバー(ハーゲン、バス)
ヨーゼフ・ヘルマン(グンター、バリトン)
アロイス・ペルネルシュトルファー(アルベリヒ、バリトン)
ヒルデ・コネツニ(グートルーネ、ソプラノ)
エリーザベト・ヘンゲン(ヴァルトラウテ、メゾソプラノ)ほか
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団&合唱団(1950.4.2, 4, &6Live)

目覚めよ!目を開け!
お前をもとの眠りに
封じ込めたのは誰か?
眠りの枷をはめ、不安に陥れたのは誰か?
その眠りを覚ます男が現われ、
口づけして、お前の眼を開く―
そして―男が花嫁を
枷から解き放つときこそ、
ブリュンヒルデは喜色に溢れて微笑みかけてくる!―
三光長治/高辻知義/三宅幸夫編訳「神々の黄昏」(白水社)P123

灼熱のワーグナー。
一事が万事、第3幕、ハーゲンによって槍を突き立てられたジークフリートが絶命寸前にふり絞る「ブリュンヒルデ!聖なる花嫁よ!」におけるマックス・ローレンツの、他では聴いたことのないあまりの感情吐露と人間味あふれる壮絶な歌唱にフルトヴェングラーのワーグナーのすべてが投影されるよう。その後の「葬送行進曲」はジークフリートの怒りであり、まるで彼が生き返るような激しさだ。
そして、フィナーレのキルステン・フラグスタートによる「ブリュンヒルデの自己犠牲」の鷹揚かつ包容力のある歌唱に対して、スカラ座オケの、イタリアのオーケストラとは思えないデモーニッシュで重厚な響きにフルトヴェングラーの力量を思う。

何より最後、「愛の救済の動機」が響き渡る瞬間のカタルシスは実演ならではの濃厚さ。
フルトヴェングラーのワーグナーは良くも悪くも人間臭い。

 

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