バーンスタイン指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管のマーラー交響曲第1番を聴いて思ふ

mahler_1_bernstein_aco321「人間的、あまりに人間的」第4章「芸術家や著作家の魂から」においてフリードリヒ・ニーチェはかく語る。

一七五
現代芸術における感覚性。―芸術家は、自分たちの芸術作品の感覚的効果をねらって仕事をすると、今ではしばしば誤算をする、なぜなら彼らの観衆または聴衆はもはや充分な感覚をもっていず、芸術家の意図とはまったく逆に、その芸術作品によって、退屈によく似た感覚の「しびれ」に陥ってしまうのである。―彼らの感覚性はおそらく、芸術家の感覚性がまさに終わるところで始まるであろう、したがって両者が出会うのはせいぜい一点である。
池尾健一訳ニーチェ全集5「人間的、あまりに人間的Ⅰ」(ちくま学芸文庫)P206

世紀末の、芸術における外面的効果の急激な発展と精神性の深化の過程で確かに創造者と大衆との間には信じられないほどの乖離が起きたのだろう。天才たちは時間の流れを追い越して、各々の創造物を世に送り出した。

この曲はまだ何のこだわりもなく、実に怖いもの知らずに書かれている。僕は無邪気にも、これは演奏者にも聴衆にも分かりやすい曲だから、すぐに気に入られ、その印税収入で生活し作曲してゆけると思っていた。それがまったく見込み違いであることが分かった時の僕の驚きと失望の何と大きかったことか!
村井翔著「作曲家◎人と作品マーラー」(音楽之友社)P73

世に出たばかりの若輩作曲家が思うほど世間は決して甘くない。もし仮に交響曲第1番が初めから受け容れられていたとしたならその後のマーラーの人生は変わっただろうし、実際に創造される作品も違っていただろう(音楽史が別の方向に向かった可能性すらあろう)。その後の改訂作業により現代の姿に落ち着いた最初の交響曲は、1896年3月、ベルリンで再演され、成功を収めた。

最新作(交響曲第3番)を演奏する勇気はありません。まずは小生の旧作から消化してもらわなければなりません。だからこそあなたにそのための機会を提供しようといささか急いでいるのです。
最新作はおそらくハ短調やいわんやニ長調のものをはるかに超えた代物です。ニ長調は今回持参するもので、これですらすでに人々を震撼させたのです―それに最新作はまだ出来上がっておりません。―
(1896年3月5日付、マーラーからマックス・マルシャルク宛)
ヘルタ・ブラウコップフ編/須永恒雄訳「マーラー書簡集」(法政大学出版局)P153

その革新性ゆえ、どれだけの大衆から支持されるか疑問と興味を抱きつつも、それでもグスタフ・マーラーは一世一代の交響曲に自信をのぞかせた。濃厚な浪漫性。否、誰のどんな演奏で聴いても、青春の清々しさと未来への希望が見事に投影される傑作。
19世紀末という時代の趨勢と、大掛かりで巨大な音楽を好んだ当時の聴衆の期待に応えんと再生されたこの音楽は、大袈裟なくらいに浪漫的であればあるほど美しい。

・マーラー:交響曲第1番ニ長調
レナード・バーンスタイン指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(1987.10Live)

第1楽章冒頭の、静寂の中から、無の中から湧き出でる生命(いのち)の鼓動。序奏が終わり、主題が奏されるあの瞬間の明晰さと解放感。一見、厚ぼったい化粧を施したような解釈だが、しかしバーンスタインのそれには随所に、であるがゆえの剥き出しで赤裸々な作曲者の心の声が響き渡る。
そして、第2楽章における農民の踊りもバーンスタインの手にかかれば実に洗練された情熱的な音楽と化す。有名な民謡を主題に使った第3楽章は、初演当時最も理解されなかった楽章らしいが、これほど愉快で耳に馴染む音楽はない。リラックスしたバーンスタインの棒さばきが見事。

何といっても素晴らしいのは、初演時のカリカチュアを模写し、音化したような終楽章の弾ける音楽の躍動。かのムラヴィンスキー率いるレニングラード・フィルのそれに負けずとも劣らぬ(吹き飛ばされるほどの)音圧。この表層的なうるさいだけの音楽が実に有機的に鳴る。最晩年のバーンスタインの至芸のひとつだ。

二一五
音楽。―音楽はそれ自身だけでは、感情の直接的言語とみなしてもよいほどわれわれの内面に対して意味深いものでも深く感動させるものでもない、むしろ音楽は詩と太古に結合していたので、非常に多くの象徴性が韻律的運動の中へ、音の強弱の中へこめられて、その結果われわれは今では、音楽が直接内面へと語りかけ、内面から出てくると妄想するのである。
池尾健一訳ニーチェ全集5「人間的、あまりに人間的Ⅰ」(ちくま学芸文庫)P226

マーラーが、交響曲第1番の再演時に掲げた標題を、再々演時には取り下げた経緯とほとんど対立するかのようなニーチェの箴言。思考は人それぞれということ。真に人間というのは面白い。

以前、友人たちの勧めに動かされて、僕はこのニ長調交響曲の理解を容易にするために、一種のプログラムを提供した。つまり、こうした標題や説明は事後的に考え出したものなのだ。今回、それらを取り去ったわけは、こうした方法ではまったく不徹底な―それどころか的外れですらある性格づけがなされると思ったからだが、のみならず、聴衆がそれによってどんな間違った道に入り込むかを、実際に体験してしまったからだ。
村井翔著「作曲家◎人と作品マーラー」(音楽之友社)P184-185

それにしても失敗を標題のせいにするとは・・・。

 

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