カルロス・クライバー指揮バイエルン国立管のモーツァルト、ブラームス(1996.10.21Live)を聴いて思ふ

1996concert_c_kleiber325呼吸、音程、強弱の重要性を思った。
哀しみも喜びも怒りも、そして情熱も慈しみもすべては音に刻まれる。
人の誕生の最初は聴覚だといわれる。確かに古人は音を注視できたのだろう。今人である僕たちも感覚を研ぎ澄ませて音に触れてみようではないか。

カルロス・クライバーの最後の輝き。映像化されているもののあえて音を聴く。
これほど劇的で有機的な「コリオラン」序曲はほかにない。最初の和音と上向する一撃から、この人が全身全霊でベートーヴェンの心を表現しようとしていたこと、あるいは音楽によって世界をひとつにしようと試みていたことがわかった。何より録音から感じる聴衆の息を凝らしての「静かなる境地」。聴く側も奏する側も一期一会の真剣勝負。
展開部の力強い歩みは、負の力に抗おうとする精神性の象徴。また、再現部における、提示部より幾分柔らかくなった音に1807年のベートーヴェンの進化と深化、その背面にある勇気を思う。静かに閉じられる終結部の瞑想・・・。

さらに、優雅で高貴なモーツァルト。音楽は清く澄み、流れ流れる。カルロスの素晴らしさは、古典的フォルムを一切逸脱しない中に必ず革新性を潜ませることだろうか。第1楽章アレグロ・アッサイにおける「ジュピター音型」に見る健やかな解放。ここを聴くだけでも大いに意味がある。
第2楽章アンダンテ・モデラートに聴く慟哭。この静かな音楽の裏側には表現し難い哀しみがあり、それを実に器用に表現するカルロスの天才。第3楽章メヌエットの愉悦は他を冠絶する。最後までモーツァルトのこのマイナーな交響曲にこだわったカルロスは、この作品の中に何を見出していたのか?おそらく人間感情(あるいは宇宙)のすべてをだろう。
終楽章アレグロ・アッサイを聴いて思った。なるほど歴史は繰り返すのだと。人間の一生は円環の内側にあるのだと。23歳のモーツァルトはやっぱりわかっていた。

・ベートーヴェン:「コリオラン」序曲作品62
・モーツァルト:交響曲第33番変ロ長調K.319
・ブラームス:交響曲第4番ホ短調作品98
カルロス・クライバー指揮バイエルン州立管弦楽団(1996.10.21Live)

どこか晦渋でありながら老練のブラームス。このメリハリの利いた安定した表現こそカルロスの行き着いた境地と言えまいか。第1楽章アレグロ・ノン・トロッポ冒頭の主題の何という自然なうねり。音楽は終始流れ、感情が爆発する。それにしてもコーダに向けて剥き出しになる実演ならではのパッションの壮絶さ。この時この場にいた人々は卒倒したのでは・・・。
憧憬に満ちる第2楽章アンダンテ・モデラートを経て、第3楽章アレグロ・ジョコーソにおける激しい葛藤。ブラームスは悩み、それに同調するようにカルロスも苦悩する。しかし、最後はすべてを包み込む。
何より真骨頂は終楽章アレグロ・エネルギコ・エ・パッシオナート。
このパッサカリアは実によくできた音楽だ。とはいえ、おそらく上手に再現するのは難しいだろう。その点これは、カルロスの全体構成力の素晴らしさと、細部にこだわる、つまり、音そのものとフレージングを大事にする彼の力量が途轍もない次元で発揮された名演奏である(ここではライブならではの瑕はあえて気にしない。それより重要なのは水の如くの音楽であり、様々な感情が反映されていること。特に、第16変奏以降の手に汗握る神降りるような恍惚の表情に言葉がない)。

意図してか意図せずか、まるでカルロス自身の性質のすべてが各曲に投影された見事なプログラム。

自身も指揮者の道を歩みだしているプラシド・ドミンゴによると、もしも現今の指揮者の才能を授けてもらえるのなら、「ジェームズ・レヴァインからは元気をあたえる力を、クラウディオ・アバドからはオーケストラへのレガート指示の仕方を、ズビン・メータからは素晴らしい柔軟性をいただきたいところですが、クライバーからは・・・『全て』をいただきたい!
ヘレナ・マテオプーロス著/石原俊訳「マエストロ」(アルファベータ)

カルロス・クライバー死して11年。1986年の来日公演を体感することができた僕は幸運だが、それでももう一度だけ実演に触れたかった。無念。

 

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