モーツァルト週間1956 バックハウス&ベームのK.595(1956.1.29Live)を聴いて思ふ

backhaus_mozartwoche_1956337晩年のモーツァルトを追う。
生活することに必死に追われながらも、最晩年の彼のパフォーマンスは加速する。
残念ながら演奏会の機会はほとんどない。とはいえ、見込みがなくても彼は生み出した。いや、お金のためにそうせざるを得なかった。
売れるものを書こうとしながら、結局出て来たものはすべてが純粋透明で崇高であったがゆえ逆に人気をとれなかった。だからこそ、後世の人々を途轍もなく魅了した。

死の年、1791年1月5日に完成した変ロ長調協奏曲K.595は、「すべてが何の競いもなく、素直でありのままに表現されている」といわれる。当時のモーツァルトの逼迫した状況からどうしてこんなものが生れたのか?

追伸。前の用箋を書いていると、涙がポタポタ紙の上に落ちた。でも今は元気。ほら、つかまえろ。びっくりするほど沢山のキッスが飛び廻っている。こん畜生!・・・ぼくにもいっぱい見える・・・ハッハッハ!・・・3つひっとらえた。こいつは貴重なものだ!
(1791年10月17日付、妻コンスタンツェ宛)
柴田治三郎編訳「モーツァルトの手紙(下)」(岩波文庫)P182

「涙ポタポタ」という吐露に胸がかきむしられる思い。
一方で、妻には気丈な姿勢で冗談を飛ばす洒落。K.595の、長調の中に突如現れる短調のフレーズに一抹の寂しさを覚えながら、すぐさま明るいモーツァルトに転じるという音楽と同質のものがこの手紙から感じとれる。

それに、どうやらお前はぼくの几帳面さ、というよりはお前に手紙を書く熱心さを、疑っているように見えるが、それはとても悲しいことだ。何とかしてぼくをもっとよく知っておくれ。あヽ、ぼくがお前を愛している半分でも愛してくれたら、言うことはないんだが。
(1790年10月15日付妻コンスタンツェ宛)
~同上書P181

モーツァルトの心を支配していたのは「哀しみ」だ。そして、その感情を癒すために彼は懸命に手紙を書き、几帳面に音楽を書いた。

1956年モーツァルト週間
・ピアノ・ソナタ第11番イ長調K.331(300i)
・幻想曲ニ短調(断章)K.397(385g)
・幻想曲ハ短調K.475
・ピアノ・ソナタ第14番ハ短調K.457
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)(1956.1.23Live)
・ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)
カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1956.1.29Live)

ザルツブルク、モーツァルテウムでの実況録音。
スタジオ録音を凌ぐ、活気と即興に満ちたバックハウス&ベームのK.595。第1楽章アレグロでの純白の「疾走する哀しみ」。一見明るさの中に秘められる慟哭の感情が、緊迫した静寂のモーツァルテウムで美しく奏でられる妙。オーケストラの提示を経て、ピアノが主題を奏でる瞬間のカタルシス!何という温かい響きであることか!!
第2楽章ラルゲットも澄み切った美しさ。長調でありながら醸し出される悲哀の深さ。ここはベーム&ウィーン・フィルの独壇場。
そして、終楽章アレグロのいかにも軽快な旋律に感じとれる未来への憧憬。果たしてこの時点でモーツァルトは自身の生命の終末を悟っていたのだろうか。

1月23日のリサイタルでのソナタほかも本当に素晴らしい。武骨な表現の内に垣間見る可憐な愛らしさ。イ長調K.331第1楽章アンダンテ・グラツィオーソのあまりの優しさに涙。ハ短調K.457第2楽章アダージョの平和にも涙。

人間は追い詰められれば追い詰められるほど「力」を発揮するものなのか?
あるいは、世間の不条理を尻目に、自らの高潔な境地に抗えず、ただ無意識に筆を執った結果が天才的作品だったということか?

 

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