ティーレマン指揮バイロイト祝祭管の楽劇「神々の黄昏」(2008.7&8Live)を聴いて思ふ

wagner_gotterdammerung_thielemann_2008349思考は早かれ遅かれ現実化する。ならば思い切り夢を見ることだ。

どこを切り取っても呼吸が深く、音楽は生き生きとうねる。「神々の黄昏」第3幕におけるジークフリートの角笛の動機も何と艶めかしく、色香満ちるものだろう。

いかなる歴史の衣装も彼(=ジークフリート)に制限を加えてはいなかったし、彼の外部で発生したいかなる状況も彼の行動を妨げてはいなかった。彼は、いかなるものに遭遇しても、生きる喜びの奥深い根源から定められているとおりに行動した。すなわち、激しい情動に培われた錯誤と混乱が周囲で重なり合って、彼に明白な破滅をもたらすほどになっても、この英雄は一瞬たりとも、死に直面してさえ、内奥の源泉が脈打って迸り出るのを妨げることはなく、また、滾々と湧き出る内なる生命の泉の必然的な流出以外の何ものにも、彼自身と彼の行動を支配する権利を認めなかったのである。
ワーグナー著/三光長治訳「友人たちへの伝言」(法政大学出版局)P372

自身のダルマ(使命)を全うしたジークフリートは、ワーグナーが求め思い描いた真の英雄であり、そういう理想の男性の発見をエルザによって教えられたのだとワーグナーは言うのである。

私は今にして思い当たるのだが、こうした意味での明瞭性を創作に際して目指しているうちに、愛するエルザによって描き出そうとした女性の心の本領を次第にはっきり理解できるようになった。芸術家は全幅の共感をもって表現対象の本質に感情移入できた場合にのみ、説得力をもった表現力を手にすることができるものである。私はローエングリンに対立する存在を希求していたが、私が当初から「エルザ」のうちに見ていたのは、こうしたローエングリンの対立的存在であった。―といっても彼の本性にまったく縁のない絶対的な対立者ではなく、むしろ彼自身の本性の他の側面であり―彼の天性のうちにはじめから包含されているような対立者、切々たる思慕を寄せる男性特有の本性に足らぬことを補ってくれるような存在なのである。エルザは無意識的なるもの、本能的なるものであり、意識的、意志的なローエングリンの本性は、それによって救われることを熱望している。
~同上書P339-340

なるほど、完全なる女性性は生涯にわたってワーグナー自身が追い求めたものだ。結局、ワーグナーは理想とする聖なる人格を愚かな英雄ジークフリートによって体現しようとしたのだが、彼は聖母の純愛を糧としたがゆえ、自ずと死というものを選択し、天に召されていった(ジークフリートの死は自身の無意識の選択によるものだと僕は想像する)。

ワーグナーの作品において管弦楽の力は真に大きい。プロローグと第1幕をつなぐ「夜明けとジークフリートのラインへの旅」をはじめとし、終幕の「葬送行進曲」、そして「ブリュンヒルデの自己犠牲」の後の圧倒的大団円におけるカタルシス。これらに在る希望の光を聴くにつけ、ワーグナーにとっては死すら生と同様祝福すべきものであることを知る。

・ワーグナー:楽劇「神々の黄昏」
ステファン・グールド(ジークフリート、テノール)
ラルフ・ルーカス(グンター、バリトン)
ハンス=ペーター・ケーニヒ(ハーゲン、バス)
アンドリュー・ショア(アルベリヒ、バリトン)
リンダ・ワトソン(ブリュンヒルデ、ソプラノ)
エディット・ハラー(グートルーネ、ソプラノ)
クリスタ・マイヤー(ヴァルトラウテ、メゾソプラノ)
ジモーネ・シュレーダー(第1のノルン、アルト)
マルティーナ・ディーケ(第2のノルン、メゾソプラノ)
エディット・ハラー(第3のノルン、ソプラノ)
フィオヌアラ・マッカーシー(ヴォークリンデ、ソプラノ)
ウルリケ・ヘルツェル(ヴェルグンデ、メゾソプラノ)
ジモーネ・シュレーダー(フロスヒルデ、アルト)
バイロイト祝祭合唱団
クリスティアン・ティーレマン指揮バイロイト祝祭管弦楽団(2008.7&8Live)

それこそ音楽そのものに身を委ねるべき「指環」第3夜。
ティーレマンの真髄は、ドラマというより音楽そのものにあるようだ。何よりまず「ジーフリートのラインへの旅」の生々しさに息を飲んだ。
そして、楽劇「ジークフリート」第3幕でのジークフリートの目覚めと対を成す終幕のジークフリートの死の場面は、最も劇的であり最も内面的な重要箇所だ。

ブリュンヒルデ!
聖なる花嫁よ!
目覚めよ!眼を開け!

お前をもとの眠りに
封じ込めたのは誰か?
眠りの枷をはめ、不安に陥れたのは誰か?
その眠りを覚ます男が現われ、
口づけして、お前の眼を開く―
そして―男が花嫁を
枷から解き放つときこそ、
ブリュンヒルデは喜色に溢れて微笑みかけてくる!―
日本ワーグナー協会監修/三光長治/高辻知義/三宅幸夫編訳「神々の黄昏」(白水社)P123

エルザがローエングリンの天性のうちにはじめから包含されていた対立者であったように、ジークフリートにとってブリュンヒルデは本来一体の対立者であったということ。しかも、ブリュンヒルデに、すなわち自身のある側面に枷をはめたのが、他ならぬ父ヴォータンであったところがミソ。さらには、一対の男が目を覚まさせ、かつ真に一体となる死に結果的に導いたというところも・・・。

「ブリュンヒルデの自己犠牲」におけるリンダ・ワトソンの熱唱に感無量。しかし、やはりそれ以上に重厚でありながら清澄な管弦楽の響きにクリスティアン・ティーレマンの力量を思う。

ジークフリート、ごらんなさい!―
あなたの妻の祝福を受けて!
~同上書P139

ブリュンヒルデの最後の言葉が哀しく、そして美しい。
「ニーベルンクの指環」という長旅を終えると自ずと安堵と喜びに満たされる。

 

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