ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルのチャイコフスキー交響曲第5番(1978.6Live)を聴いて思ふ

tchaikovsky_5_mravinsky_wien_1978354文化の違いを痛感する。生まれ育った環境や習慣や、もちろん体験によって前提が異なるのである。そんな中で人と人とが真に触れ合うに言葉は不要。心と心をつなぐには何が必要か?
音楽こそ万国共通の概念であり、大袈裟だけれどそれこそが人類を救うツールなのではないかとあらためて思う。

いつの時代にも、人種、宗教、領土などを巡って戦争は勃発する。しかし音楽は、戦時下に遭っても国境や人種、さらには敵と味方のボーダーすら超越して機能する。インターナショナルな言語なのだ。
菅野冬樹著「戦火のマエストロ 近衛秀麿」(NHK出版)P260

近衛秀麿氏の戦時中の実に人道的な活動に感動した。この人のそういう部分にはほとんど焦点が当てられてこなかったが、近衛氏がさすがにすべてのつながりを見通すだけの力を持った人だったことを知る。

話題を変える。エフゲニー・ムラヴィンスキーも心底では人道的な精神に溢れた人でなかったか。一見冷徹でありながら温かく美しい彼の生み出す音楽を聴いて思った。この人が西側でもった公演の録音は、どんなものも気概に溢れる。おそらく気負いもあったかもしれない。それがゆえの音楽のただならぬ高揚。だからこそその場に居合わせた聴衆は幸運だった。そこには録音の拙さも手伝って、指揮者の赤裸々な思いが刻印される。

異国のチャイコフスキー。クアラルンプールで聴くチャイコフスキーは不思議に魅力的。何より作曲者自身が独特の感性を持っていた人。しかし、北国の大地の暗澹たる雰囲気を飲む込むような常夏のオーラは、チャイコフスキーの音楽すらことさらに明朗なものに変える。

・チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調作品64。
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団(1978.6.12&13Live)

低音に不足感の否めない録音だが、間違いなくムラヴィンスキーのチャイコフスキー。絶対的な解釈で僕たちを夢の世界に誘う力量は、20世紀の大指揮者の中でも随一。
例えば、第2楽章アンダンテ・カンタービレ・コン・アルクーナ・リチェンツァの、哀愁と確信。さらには、終結部におけるティンパニの強烈な打音!!!もちろん金管群の咆哮もムラヴィンスキーの他にはない様相を示す。
そして、第3楽章ワルツ、アレグロ・モデラートの優美な踊りは、ロシアの大貴族の悠々自適な日常を刻む。さらに、終楽章アンダンテ・マエストーソ―アレグロ・ヴィヴァーチェの見事な歌!!後半に進むにつれ音楽は高揚し、コーダに至っては人間業とは思えない充実度の音楽が再生されるのである。

音楽はあらゆるボーダーを超越して機能する。

 

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