ラザレフ指揮日本フィルハーモニー交響楽団第674回東京定期演奏会

razalev_japan_phil_20151023358ショスタコーヴィチの問題作といわれる交響曲第9番を支えるのに完璧なプログラミング。
なるほど、今日のコンサートのテーマは一貫して「死」であり、しかもその「美しさ」を完全に描き切ったものだと僕は思った。

ストラヴィンスキーのバレエ音楽「妖精の口づけ」は、敬愛するチャイコフスキーの死から35年目の年に書かれ、この偉大な作曲家への追悼の意味を含みつつ、アンデルセンの童話にひもづけて死というものの必然性を描いたものだ。
今宵の日本フィルの演奏はとても描写的なもので、アレクサンドル・ラザレフの、徹底して細部にこだわった解釈を見事に音化していた。その点で、バレエそのものの動きが手にとるようにわかるものだったゆえ、逆にバレエなしであったことが実に残念であったともいえる。
管弦楽曲として聴くならば、圧倒的に後に組曲化されたディヴェルティメント版だろうと思ったのだが、ラザレフが意識したのは音楽そのものの物語性であり、そしてその音楽の外面上のショスタコーヴィチとの類似性だったのかもしれないと、コンサートを終えて考えた。

「妖精の口づけ」のエピローグでは、妖精が再び若者の前に現れ、口づけを与えて彼を永久に雪の王国に連れ去るのだが、死を永遠の美として扱った物語を、祖国戦争の大勝利と同時に戦死者を弔う意味で生み出されたショスタコーヴィチの第9番とを対比させることで、死というものが決して恐れるものではなく、むしろ喜びのひとつとして迎えるべきものではないのかとラザレフは考えたのかもしれない。
一貫して「死という美」を扱ったプログラミングの妙。

日本フィルハーモニー交響楽団
第674回東京定期演奏会
2015年10月23日(金)19時開演
・ストラヴィンスキー:バレエ音楽「妖精の口づけ」
休憩
・チャイコフスキー:二重唱「ロメオとジュリエット」(タネーエフ編曲)
・ショスタコーヴィチ:交響曲第9番変ホ長調作品70
黒澤麻美(ソプラノ)
大槻孝志(テノール)
原彩子(ソプラノ)
木野雅之(コンサートマスター)
辻本玲(ソロ・チェロ)
アレクサンドル・ラザレフ指揮日本フィルハーモニー交響楽団

例えば、第3場「水車小屋にて~パ・ド・ドゥ」における、ヴァイオリンのトリルに乗って奏される木管のニュアンス豊かなメロディの美しさ。そして、第4場エピローグのいつまでも音楽が継続されるのではと錯覚させる永遠性。素晴らしかった。

15分の休憩を挟んで、後半冒頭のチャイコフスキーの、遺作とはいえそれこそ希望に溢れる音調に感動。ロメオとジュリエットの死のシーンを扱いながら、そして作曲者自身が結局完成させることができずに終わった作品であるにもかかわらず、何という明朗かつ繊細で奥深い音楽であることか。教え子であったセルゲイ・タネーエフのチャイコフスキーへの深い愛情が感じられる見事な編曲。やっぱりチャイコフスキーはまだまだ生きるつもりだったのだ(当然だけれど)。

ちなみに、最後のショスタコーヴィチについては言葉にできぬほど。初演当時物議を醸したこの一見小交響曲風の音楽は、実に風趣豊かで深いものであることをラザレフの実演に触れ確信した。日本フィルの一人一人の奏者の力量が問われる第1楽章アレグロから素晴らしい響きで、あの軽快かつ急速な音楽を見事なアンサンブルで表現し得ていたことにまずは拍手を送りたい(ピッコロもフルートも最高)。とはいえ、一層拍車がかかるのは第2楽章モデラート―アダージョ以降で、いかにもショスタコーヴィチらしい暗澹たる葬送の面持ちと、一方で金管の爆発的な咆哮と雄叫びに思わず硬直したくらい。何より第4楽章ラルゴから終楽章アレグレットにかけての深沈たる音楽の運びに涙し、最後の圧倒的疾走感にこそ祖国ソビエト連邦への作曲者の信頼と忠誠を思った。

ひょっとするとショスタコーヴィチは第9交響曲作曲に際し、チャイコフスキーやストラヴィンスキーを多少なりとも意識したのかも。僕にはこの作品に「妖精の口づけ」の木魂が聴こえた。

 

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