東京クヮルテットのベートーヴェン作品130&作品133(2008.8-9録音)を聴いて思ふ

beethoven_tokyo_string_quartet030闘うベートーヴェンと沈むベートーヴェンがある。
そして、必死で生きんとせんベートーヴェンの意志がある。
晩年の音楽はいずれも不要なもの一切が捨てられた透明感をもつ。しかしながら、唯一あるこだわりは「生きること」だ。
おそらく自身の寿命を無意識下では悟っていたのかもしれぬ。
とはいえ、介在意識のベートーヴェンには俗的な夢も希望もあった。

「われわれといっしょに来たまえ。ここにこそ平和がある。ここでは悲しみは死にうせる。思考とともに死にうせる。われわれは魂をうまく揺すってやるので、魂はわれわれの腕に抱かれて眠ってゆく。ここへ来て、休みたまえ、君はもう目を覚ますことがないだろう・・・。」
いかに彼は疲れきってたことだろう!いかに彼は眠りたがってたことだろう!しかし彼は頭を振って言った。
「僕が求めているのは平和ではない、生なのだ。」
彼はまた歩きだした。みずから気づかずに幾里も歩き通した。夢幻的な衰弱の状態にあったので「、もっとも単純な感覚も意外の反響を伴ってきた。
ロマン・ロラン作/豊島与志雄訳「ジャン・クリストフ(7)」(岩波文庫)P240-241

東京クヮルテットのベートーヴェンは、強いて言うなら俗的だ。もちろん良い意味で。本来なら近づきがたい最晩年の四重奏曲が、これほど親しみやすく、そしてこれほど希望に満ちて奏されるとは!!奇蹟である。

作品130第3楽章アンダンテ・コン・モート・マ・ノン・トロッポの愉悦。続く第4楽章アレグロ・アッサイの流れるような舞踊と第5楽章カヴァティーナの夢見る幻想。やはりここには聖なるベートーヴェンはいない。あくまで人間ベートーヴェンが紡がれるのだ。
だからこそ一層美しい。

ベートーヴェン:
・弦楽四重奏曲第13番変ロ長調作品130
・大フーガ作品133
東京クヮルテット
マーティン・ビーヴァー(ヴァイオリン)
池田菊衛(ヴァイオリン)
磯村和英(ヴィオラ)
クライヴ・グリーンスミス(チェロ)(2008.8-9録音)

終楽章アレグロの前に置かれた「大フーガ」の安定した厳粛な響きに涙する。当時の大衆には刺激が強過ぎるだろうと引込められた巨大なフーガはベートーヴェンが晩年に行き着いた悟りの境地だ。また、殊更に愛をもって弾かれる東京クヮルテットの見事なアンサンブルにため息が出るほど。
それにしても、軽快な終楽章アレグロの癒しといったら・・・、いつまでも浸っていたいほど。

クリストフは森の中の開けた場所に出た。山の一つの襞のくぼみ、四方閉ざされた正しい楕円形の谷間で、夕陽の光が一面に当たっていた。赤土の地面であって、中央の狭い金色の野には、遅麦や錆色の燈心草が生えていた。周囲はすべて、秋で成熟した森に取り巻かれていた。赤銅色の橅、金褐色の栗、珊瑚色の房をつけた清涼茶、小さな火の舌を出してる炎のような桜、橙色や柚子色や栗色や焦げ燧艾色など、さまざまな色の葉をつけてる苔桃類の叢。それはあたかも燃ゆる荊に似ていた。そしてこの燃えたつ盆地のまん中から、種子と日光とに酔った一羽の雲雀が舞い上がっていた。
クリストフの魂はその雲雀にようであった。やがてふたたび落ちること、そしてなお幾度も落ちること、それをみずから知っていた。しかしまた知っていた。下界の人々に天の光明を語ってきかせる歌をさえずりながら、火の中へ撓まずにふたたびのぼってゆくことを。
~同上書P257-258

「ジャン・クリストフ」の最終シーンは真に美しい。多色のパレットにて織りなす自然描写とクリストフの心象風景を重ね合せる妙。これこそ最晩年のベートーヴェンが音楽によって示した自然と心との一体化を文字で表したかのよう。

もはや東京クヮルテットの実演を聴けないことが残念でならない。

 

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