アルゲリッチ幼年時代のベートーヴェン(1949Live)&シューマン(1952Live)を聴いて思ふ

beethoven_schumann_argerich_1949_52381ベートーヴェンの2番目の協奏曲であるハ長調協奏曲作品15は、爽やかで澄んだ風吹く青春の佳作である。ここには希望があり、自然があり、人間がある。そして何よりピアノが僕たちに雄弁に語りかけるところが素晴らしい。特に、第2楽章ラルゴにある憧憬と哀感は、幼少から様々な苦悩のあった作曲家が、自らを癒すかの如くの調べが連綿と綴られる。何という美しさ!

マルタ・アルゲリッチの演奏にはこれまで幾度か触れた。中で、いつだったか聴いたベートーヴェンの作品15の素晴らしさは群を抜いていた。ジュゼッペ・シノーポリとスタジオ録音したグラモフォン盤はもちろん最右翼の名盤だ。何よりその音楽性、ニュアンス豊かな豊潤な香り、どこをどう切り取ってもアルゲリッチにしか成し得ない、自由奔放でありながら確信に満ちた表現。思わず涙がこぼれる・・・。

そのアルゲリッチの、わずか7歳の時の実況録音。
何とベートーヴェンの作品15が、大人顔負けの類い稀な解釈をもって表現されているのである。天才は生まれながらに天才であることが如実に示される貴重な遺産。
実際のところ、レビューには受け容れ難いという意見が多い。しかし僕には「聴こえる」のである。虚心坦懐に耳を凝らすと、劣悪な音を超え、いかにも温かで慈悲溢れる音楽が奏でられるのがわかる。
これを演奏しているのはわずか7歳の少女なのだ。もはや(あらゆる人間感情を超越した)奇蹟としか言いようがない・・・。

・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15(1949Live)
アルベルト・カステリャーノス指揮エル・ムンド国立放送交響楽団
・シューマン:ピアノ協奏曲イ短調作品54(1952.11.26Live)
ワシントン・カストロ指揮ブエノスアイレス市立交響楽団
・J.S.バッハ:トッカータト長調BWV916~プレスト
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)

そして、情動と色気に溢れる、とても10歳の少女が弾いているとは思えないロベルト・シューマンの協奏曲イ短調!!!彼女は既にこの頃からこの作品を手中に収めていた。
第1楽章アレグロ・アフェツオーソは実に雄弁だ。後半は最悪の音質であるが、もはやそういう問題ではない。特にカデンツァの、躍動し飛翔するピアノの魔法にはただならぬ妖気さえ感じるほど。その証拠に、ここですでに聴衆は熱狂的な拍手喝采を送っているのである。
また、第2楽章インテルメッツォの、少女らしい可憐なピアノに感涙。まるで情感込めたクララ・シューマンが演奏するかの如く(実際クララの演奏は聴いたことがないが)。
そして、終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェのカタルシス!単に女の子が演奏しているという事実に留まらない感動が聴後の拍手からもはっきり理解できる。
間違いなく神童!!

おそらくアンコールで奏されたのであろうバッハのトッカータ抜粋の鷹揚なテンポの華麗で透明な音楽に驚かされる。この瑞々しさは、少女時代からアルゲリッチが完成していたことを示す。

 

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3 COMMENTS

雅之

本文から、世阿弥「風姿花伝」の中の、第一 年来稽古条々 を思い出しました。

七 歳
 一、この芸において、大方七歳をもて初めとす。このころの能の稽古、かならずその者しぜんといたすことに得 たる風体あるべし。舞・はたらきの間、音曲、もしは、怒れることなどにてもあれ、ふとしいださんかかりを、う ちまかせて心のままにせさすべし。さのみに、善き悪しきとは、教ふべからず。あまりにいたく諫むれば、童は気 を失いて、能ものぐさくなりたちぬれば、やがて能はとまるなり。・・・・・・

ちなみに、我々の年代以降になると、

五十有余
 このころよりは、おほかた、せぬならでは、てだてあるまじ。麒麟も老いては土馬に劣ると申すことあり。さり ながら、真に得たらん能者ならば、物数はみなみな失せて、善悪見所はすくなしとも、花は残るべし。
(中略)
 およそそのころ、ものかずを ばはや初心にゆづりて、安きところをすくなすくなと、色へてせしかども、花はいやましにみえしなり。これ真に 得たりし花なるがゆゑに、能は、枝葉もすくなく、老木になるまで、花は散らで残りしなり。これ、眼のあたり、 老骨に残りし花の証拠なり。

これは、まさに現在のアルゲリッチでもありますよね。

※大意はこちら
http://www.the-noh.com/jp/zeami/7stage.html
が参考になります。

「世阿弥が説く7段階の人生は、何らかを失う、衰えの7つの段階であるともいえます。少年の愛らしさが消え、青年の若さが消え、壮年の体力が消える。何かを失いながら人は、その人生を辿っていきます。しかし、このプロセスは、失うと同時に、何か新しいものを得る試練の時、つまり初心の時なのです。「初心忘るべからず」とは、後継者に対し、一生を通じて前向きにチャレンジし続けろ、という世阿弥の願いのことばだといえるかもしれません」という締めの言葉が、私に勇気を与えてくれます。

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岡本 浩和

>雅之様
こんにちは。
「風姿花伝」というのは本当に素晴らしいですね。
今日も勉強になりました。
おっしゃるように、締めの言葉の深さに心動かされます。
ありがとうございます。

ところで、僕たちの年代はもう老年期なのですね!
吃驚です。(笑)

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雅之

私の年齢は、今ちょうどチャイコフスキーが「悲愴」を書き上げた時期と同じくらいなので、とりあえず生水を飲んでコレラにかからないように、日々細心の注意を払っております(笑)。

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