冬は終りになりました。光はのどかに一ぱいに、
明るい天地にみなぎって。
どんなにさびしい心でも、
空気の中にちらばったこのよろこびには負かされる。
病的でうっとうしいこのパリまでが
きょうこのごろはよろこんで
その日その日を迎え入れ、
赤い瓦の屋根の手を大きくのばして招いてる。
~堀口大學訳「ヴェルレーヌ詩集」(新潮文庫)P124
この頃(1870年)の、ポール・ヴェルレーヌの充実(生への憧れ)が一編の詩に投影される。
そして、父や母を亡くした頃(1880年代中頃)のガブリエル・フォーレの音楽にも、死に対する畏怖、それと同時に生への憧憬と感謝が反響する。
静寂の中にある実存感という表現が相応しいのかどうなのか・・・。
果たしてこの演奏が作曲者の意思を正しく反映しているのかどうなのか・・・。
あるいはこれほどの「うねり」がその音楽に必要なものなのかどうなのか・・・。
死せる魂を再生するような演奏。
指揮者の力量はもちろんだが、不滅のこの名曲を一層輝かせるのには二人の独唱者の圧倒的な技術が必要であったのだろう。
例えば、フィッシャー=ディースカウの知的で、とても現実的、あまりに巧すぎる歌に少々の違和感を覚えながらも、例えば「聖なるかな」の合唱における女声と男声の美しい対話に異様な感動を催し、また、「ピエ・イェス」におけるロス・アンヘレスの深く重みのある、夢みるような独唱に感動する。
まさしくサン=サーンスの賞賛を体現するような美しさ。
君の「ピエ・イェス」は、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム」が唯一のアヴェ・ヴェルムであるのと同様、唯一のピエ・イェスです。
(1916年11月2日付、サン=サーンスからフォーレへ)
~ジャン=ミシェル・ネクトゥー編著/大谷千正・日吉都希惠・島谷眞紀訳「サン=サーンスとフォーレ往復書簡集1862-1920」(新評論)P208
・フォーレ:レクイエム作品48
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレス(ソプラノ)
アンリエット・ピュイ=ロジェ(オルガン)
エリザベート・ブラッスール合唱団
アンドレ・クリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団(1962.2.14-15&5.25-26録音)
永遠の安息を彼等に与え給え、主よ、
彼等が上に永遠の光をば照らし給え。
「入祭唱とキリエ」はほとんど死を拒絶するかのように粘る。オルガンの伴奏の上にたなびく(?)女声合唱の神秘。また、それに重なる男声合唱の透明感。
また、「奉献唱」冒頭の、暗鬱な管弦楽の永遠。
そして、「楽園にて」における凝縮された音楽はフォーレ芸術の真骨頂。この美しさは他の何ものにも代え難い、唯一無二の奇蹟。
天使たち、汝をば天国に導き、
殉教者たち、汝をば迎え入れ、
聖なる都イエルサレムへといざなわん。
嗚呼・・・、言葉にならぬ。
※太字歌詞大意は高崎保男氏による
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EMIもいってしまいました。
CD時代への「レクイエム」という感が強い昨今ですね。
考えてみりゃ、これ、ほぼ私が生まれた時期の録音でした。何だかなあ(笑)。
>雅之様
はい、赤いロゴが青いロゴに変わっている姿を見て、いつもため息が出ます。
期せずしてまたシンクロしていることにも驚きです。
>雅之様
>これ、ほぼ私が生まれた時期の録音でした
あ!!(笑)
[…] 「永遠の至福と喜びに満ちた解放感」が投影されるゆえの崇高体験。 この作品にはコルボ&ベルン響による永遠の名演があり、あるいはよく知られるクリュイタンス&パリ音楽院管による名盤もある。何度か聴いた実演でも、例えばパイヤールが確か都響だったか読響だったかを指揮した舞台は忘れられないほど感動的だった。 久しぶりに聴いたデュトワ指揮モントリオール響による「レクイエム」(何とちょうど30年前の録音!)の澄明さ。何より低音部を支えるオルガンの永遠美。 […]
[…] 名盤と称される、新しい録音よりも僕はシンパシーを覚えた。音が、音楽の進行と共にますます沈潜してゆく様に、何とも不思議な安息があるからだ。第2曲「奉献唱」の、ルイ・ノゲラ […]
[…] ※過去記事(2016年2月5日)※過去記事(2020年4月17日) […]