広上淳一指揮新日本フィルハーモニー交響楽団第554回定期演奏会

hurokami_njpo_20160219451知らない楽曲を味わう時の期待感。録音機器などなかった昔の人々の音楽体験とはこういうものだったのか・・・。ただひたすら耳を傾け、そして知ることの恍惚をあらためて確認する。
天国的なモーツァルトの響きに、後世のあらゆる音楽の雛形がここにあることを思った。残念ながら、グリーグも物語あっての音楽だと。ましてや1万ドルの賞金がついたというアッテルベリの交響曲については、北欧的な抒情が一貫しているにもかかわらずその音楽の打ち出し方はやはり頭脳的で、正直疲労困憊した。面白かったのだけれど。

クット・アッテルベリの交響曲第6番は、シューベルト没後100年のコンクールに出品され、優勝を飾った作品だというが、北欧的抒情に溢れる音調ながら妙に英雄気取りのところが良くも悪くも印象的。第1楽章モデラート冒頭の弦の刻み、ホルンを中心とした金管楽器の主題のアグレッシブさに腰を抜かす。また、第2楽章アダージョの暗澹たる葬送のような重い音楽の始まりに心動くも、クレッシェンドにしたがって解放されゆく様に妙に「軽さ」を覚えたのは僕だけか?あるいは、それに対比するかのように踊る第3楽章ヴィヴァーチェの爆発は広上淳一の真骨頂。果たしてこれが後世にまで残る名作かどうかは僕にはわからない。自然と人工とが入り交じったその作風に「面白み」を感じたのは確かだが。

新日本フィルハーモニー交響楽団トリフォニー・シリーズ第554回定期演奏会
2016年2月19日(金)19:15開演
すみだトリフォニーホール
・アッテルベリ:交響曲第6番ハ長調作品31「ドル交響曲」
・モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第1番変ロ長調K.207
休憩
・グリーグ:「ペール・ギュント」第1組曲作品46
・グリーグ:「ペール・ギュント」第2組曲作品55
米元響子(ヴァイオリン)
崔文洙(コンサートマスター)
広上淳一指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

モーツァルトは考えて音楽を書いていないことがよくわかった(すべてがインスピレーション!)。神によって書かされている、極めて自然体の音楽。17歳の少年の、何という無垢で可憐な音楽であることか!米元さんのヴァイオリンは美しかった。そして、何より懸命だった。もちろん広上の伴奏も素晴らしい。独奏楽器に寄り添い、主張し過ぎず、あくまで共にモーツァルトを表現しようとする潔さ。

そして、休憩を挟み、メインの「ペール・ギュント」組曲。
ストーリーテラーとしての広上淳一の本領発揮とでも言えば良いのだろうか、作曲者の意図が見事に体現され、物語の風景と登場人物たちの心情が隅から隅にまで融け込んだ美しい再現だったと僕は思う。
いかにも強音で示される「朝の気分」の光輝。また、「オーセの死」のあまりの透明感。あるいは「山の王の宮殿にて」(キング・クリムゾンの「宮殿」はここからもじられているのだ!)における劇性、どれもが広上の欣喜雀躍たる指揮姿に同期する。
一呼吸おいての第2組曲は一層素晴らしかった。「ソルヴェイグの歌」は特に哀しかった。

 

ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。


音楽(全般) ブログランキングへ


2 COMMENTS

雅之

>残念ながら、グリーグも物語あっての音楽だと。

「標題音楽」よりも「絶対音楽」のほうが上だという価値観を持つクラシックファンが多いですが、私の考え方は違います。

「標題音楽」は、「標題音楽」としても「絶対音楽」としても聴くことが可能です。「田園」は田園風景として聴かない聴き方が可能です。オペラの録音を、言葉の意味などわからなくても「絶対音楽」として聴くことは、よく経験します。

誤解を怯れずいえば、作品や演奏の優劣とは、100%聴く側一人一人の置かれた問題の反映に過ぎないというのが、現在の私が到達した結論です。

返信する
岡本 浩和

>雅之様

確かにそうですね。
昨日は、聴いたそのままを直感的に書き連ねてしまいましたが、おっしゃることはその通りだと思います。

それでも「ペール・ギュント」は、どうしても物語が先行してしまいます。
わかっていてもつい先入観が、なんですね。

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む