アルゲリッチ&アバドのモーツァルトK.503&K.466(2013.3Live)を聴いて思ふ

mozart_25_20_argerich_abbado_2013456モーツァルトは単なる羽目を外した無頼漢ではなかった。
自由を謳歌しながらもその精神性は人智を超えており、実際のところは「品行方正」、であるがゆえに数多の傑作を生み出せたのである。

愛する婚約者コンスタンツェがやんちゃをしたときに認めた手紙には次のようにある。

ぼくはあなたの拒絶を真に受けて引き下がるほど短気でもないし、軽率でも、無分別でもあいません。そんなことをするには、あまりにもあなたを愛しすぎています。でも名誉を大切にする女性なら、すべきことではありません。
(1782年4月29日付、モーツァルトからコンスタンツェ宛)
高橋英郎著「モーツァルトの手紙」(小学館)P309

あまりにも正当。彼の作品同様、形式を重んじる保守性。
そのくせ一方でその創造物は見事に飛翔する。内なる矛盾を抱えたモーツァルトの音楽は神秘的であり、美しい。

前年12月の父レオポルトに宛てての手紙にはまたこうある。

彼女はいつも小ざっぱりときれいな身なりを好んでいるのは確かですが、おしゃれではありません。そして、女性に必要なことはたいてい自分でできます。髪も毎日、自分で手入れします。家事も心得ており、世にも稀な善良な心の持ち主です。―ぼくは彼女を愛しています―彼女もぼくを心から愛しています。これ以上の妻を望めるでしょうか。お知らせください。
(1781年12月15日付、モーツァルトからレオポルト宛)
~同上書P308

モーツァルトの、父の結婚承諾を得るべく奔走する真摯な姿が微笑ましい。
この人は真面だ・・・。

モーツァルト:
・ピアノ協奏曲第25番ハ長調K.503
・ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
クラウディオ・アバド指揮モーツァルト管弦楽団(2013.3Live)

ルツェルン音楽祭。アルゲリッチの、アバドと共演した最後の記録。
K.466の不思議な明朗さは、師グルダの名盤とはまた違った意味で奥深い。
第2楽章ロマンス冒頭の透明なピアノの響きに度肝を抜かれ、それに追随する管弦楽の有機的な音に心動く。それにしても悟りを得たかのような清澄なアバド&モーツァルト管弦楽団の伴奏に舌を巻く。
ところで、これまでK.503に関してはそれほど面白い作品だという認識がなかったのだが、アルゲリッチのこの演奏は、第1楽章アレグロ・マエストーソのカデンツァにグルダ作のものを使っているということもあり、躍動感溢れ感動的。その鷹揚さ、そして自由奔放なピアノに金縛り・・・。また、第2楽章アンダンテにおける想いを込めた余裕のある解釈に、モーツァルトの哀感を見事に表出するアルゲリッチの心を思う。あるいは終楽章アレグレットにこそ僕はアバドの最後の輝きを発見する。これほど管弦楽に力強さを感じる演奏は稀。優しさと慈しみ。

 

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2 COMMENTS

雅之

素朴な疑問。モーツァルトのピアノ協奏曲に、指揮者はそれほど重要か?

ただでさえ、作曲と演奏が分業になってつまらなくなったクラシック。

モーツァルトのピアノ協奏曲の指揮くらいピアニストが弾き振りでやれよ!!、とは言いすぎですか(笑)。ここでのアバドには悪いですけど・・・。

https://www.youtube.com/watch?v=VtTqpqGIIYU&list=PLD339D94ACD119971&index=4

https://www.youtube.com/watch?v=tceOG9JO4kw

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岡本 浩和

>雅之様

まぁでも、モーツァルトが自分で弾き振りするなら良いんでしょうが、なかなか今の分業体制だとしがらみがいろいろあって難しいんじゃないでしょうか?(笑)
そんなの気にしない人は何でもやるのでしょうが・・・。
それにしてもグルダの弾き振りは最高ですね!
あと、アルカンのピアノ独奏編曲版は初めて知りました。こんなのあったんですね!

ちなみに、今日の記事は黛敏郎自作自演の「東京オリンピック」です。自分で作ったものは自分で演奏するのが一番ですね。

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