パリのフルトヴェングラー(1954.5.4Live)を聴いて思ふ

furtwangler_in_paris_1954462テンポの執拗な動き(伸縮)と思わぬ「ため」に感動する。
最晩年の演奏にもかかわらず、相変わらず音楽は躍動し、生気に溢れる。

音楽はわたしにとってけっして完成することがない。音楽は第一拍より展開をはじめ、第一拍がいかに発せられるかに応じて、それ以外のあらゆる要素がそこから必然的に生起する。テンポにしてもその例外ではない。
マルティーン・ヒュルリマン編/芦津丈夫・仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーを語る」(白水社)P110

この第5交響曲についても然り。第1楽章アレグロ・コン・ブリオの主題提示最初の一音から音楽は息づき、それに引っ張られるように音楽はうねり、咆える。相変わらず生きもののようだ。

創造者の道は、内的なヴィジョン、すなわちすべての部分をふくむ全体を閃光のごとく眼前に呈示する創造的瞬間にはじまり、空間と時間の次元にいたる。それは先験的=不可分的に結合かつ相関するものから出発し、これを時間的な前後、音響空間的な上下、前景と背景などに分割するにいたるのである。ヴィジョンの瞬間にはまだ眼に見えなかった一粒の種子がふくらみ、成長して、空間的・時間的に発育する植物となる。このことが創造者に妥当するのである。
~同上書P111

意志、すなわち内なるひらめきをいかに上等に物質化するかが創造者の力量だと。なるほど音楽のうちにも「自然の法則」が横たわるらしい。「振ると面食らう」と揶揄された彼の棒は、実は極めて自然体のもので、想像以上にシンプルだったのかもしれないと思った。
ちなみに、1954年のフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルのパリ公演を聴かれた吉田秀和さんのエッセーには次のようにある。

フルトヴェングラーの棒は見にくい。アインザッツが乱れやすい、という話を僕らは終始きかされていたが、僕はそれほどに思わなかった。かなりに簡素なものであり、その棒はくの字形に震えはするが、どこに句読があるのかわからないというのではない。これは以前に比べるとずっと簡素になったのだ、といって説明してくれた人がある。以前の彼を知らないが、僕の見たところでは評判とはずいぶんちがっていた。よく一音符一音符をおろそかにしない演奏ということがいわれるが、フルトヴェングラーの指揮は、その一音、一フレーズ、そうして一つの休止!をとても大切にして、表情をつけていることが特徴である。そのどれもが、物語るか、歌うか、行進するか、嗚咽するか、絶叫するか、祈るか、している。
吉田秀和著「フルトヴェングラー」(河出文庫)P19-20

フルトヴェングラーの下では休止を含め、すべてが音楽的なのだと。あらゆる感情が刻印された音楽の魔法。終演後の熱狂的な拍手喝采を聴くだけでもそのことは容易に理解できる。

パリのフルトヴェングラー
・ウェーバー:歌劇「オイリアンテ」作品81~序曲
・ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲作品56a
・シューベルト:交響曲第8番ロ短調D.759「未完成」
・ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調作品67
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1954.5.4Live)

明朗かつ浪漫的な「オイリアンテ」序曲の素晴らしさはそもそもウェーバーの音楽の力だが、フルトヴェングラーが棒を振ると一層快活で重厚な音楽と化す。愉悦の裏にある哀感まで表現する妙。ここでも聴衆の長い拍手までもが収録される。
また、十八番の「ハイドン変奏曲」の魂に直接届くような音。第7変奏の甘美で濃厚な響きに心動く。長い間をとっての続く第8変奏の憂愁、その後の終曲パッサカリアの開放にフルトヴェングラーの神髄を思う。
そして、いかにもフルトヴェングラーらしい暗い「未完成」交響曲。第1楽章アレグロ・モデラート、出のチェロの音からして実に神秘的。音楽がクレッシェンドし、頂点に達するときのカタルシス。デッドな録音でありながら実に燃焼度の高い有機的な音楽の再現!何より、第2楽章アンダンテ・コン・モートの切なさ・・・。

 

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2 COMMENTS

雅之

フルトヴェングラーはもちろんですが、吉田秀和も劣らず偉大な存在だったなあ、という感慨にひたっています。

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