EIICHI OHTAKI “DEBUT AGAIN” (2016)を聴いて思ふ

eiichi_ohtaki_debut_again481大瀧さんの、1983年の有名なポップス講座「分母分子論」が興味深い。
この人の徹底的に物事を追究するアプローチはある種奇人変人ともいえるもので、当然だけれど実に説得力がある。

まあ、分母でも地盤でもいいけど、思ったのは、その下のほうにあるものを、カッコにしてしまわないで、常に活性化させることが、やっぱり上のものがあるとすれば、そこがまた活性化する原因だと思うんですよ。だから、そのひとつとして、パロディ作品にトライしてみるとか、確認作業とか、そういうことをやっているんですよね。だから、常に一面的な見方の地盤というんじゃなくて、その地盤も変幻自在に変わっていく部分もあると思う。そこを見つめていくことが大事なんじゃないかって考えてるんです。
(「FM fan」1983年11月25日-12月4日号「分母分子論」)
KAWADE夢ムック「大瀧詠一」(河出書房新社)P70-71

ここでいう「その下のほうにあるもの」というのは「世界史」、すなわち当時の世界を席巻したビートルズやベンチャーズや輸入ロック音楽のことを指す。つまり、大瀧さんは日本のロックを個別化するのでなく、世界と一体になることを意識して創造せよと当時から確信をもっておっしゃるのである。

大瀧詠一さんが亡くなって早2年と少しが経過する。歌手としてはほぼ終わっていた方だから、新曲が発表されるとは間違っても考えなかったが、それでもいつか吃驚するような作品がひょいとリリースされるのではないかという淡い期待もあった。
それゆえに、あの年の暮れの突然の訃報には本当に愕然とした。大瀧詠一のニュー・アルバム、リリースの夢は永遠に葬られたのだから。

しかしながら、さすがは大瀧さん。
まさか自身の早い段階での死を予感されていたわけではないだろうに、近しい人含め誰にも知られることなく、見事に内緒でご自身がこれまで他人に提供した数多の楽曲のカバーを録音されていたというのだから。

EIICHI OHTAKI:DEBUT AGAIN (2016)

小林旭に提供された「熱き心に」から吉田美奈子、シリア・ポールのための「夢で逢えたら」まで全10曲。初回限定盤には4曲の洋楽カバーを収録したボーナス・ディスクが付く。

なんとなく気乗りがしなかった曲だが、スタジオでストリングスのイントロを聴いて、それまでの疑問が払拭された。そうか!これは「西部開拓史」なんだと。ハリウッド映画の音楽で、雄大な景色のなか、疾走する駅馬車、馬に跨がる主人公の姿などが、一瞬にして思い浮かんだ。その時に、大瀧さんの狙いがわかった。これならいけると。グランドキャニオンやアラスカの風景。これは日活映画の世界ではなく、ジョン・ウェインの世界なんだと。
(小林旭「熱き心に」から20年)
~同上書P44

小林さんの比喩が何とも可笑しいが、大瀧さんの音楽がまさに世界史を分母に据えたものだということを当時は誰も気づかなかったことを示す言葉だ。
大瀧さんの作品にはどこかで聴いたことのあるフレーズが頻出する。本人が言うようにパロディではあるが、完璧に自身のイディオムとして表現されているゆえ、どの作品も「真似」ではなく、大瀧詠一のオリジナルとして認識されるところが素晴らしい。

それとまた、1981年の渋谷公会堂での伝説のヘッドホン・コンサートから松田聖子に提供した「風立ちぬ」が大瀧さんの美しくも男性的なヴォーカルで披露されるのだから堪らない。

つまり「ヘッドホン・コンサート」で起こっていたのは、ただいきなりスタジオルーム並みの高音質で聞くという体験ではなかった。そこには、ラジオというメディアをめぐる小さな「事故」の可能性が仕掛けられていたのである。
聞き手のちょっとした事故が誘発され、「音を聞いているとはどういうことか」という感覚が揺らされ、ふだんは不問に付している赤の他人の存在が浮き上がってくる。あらかじめ他人となにかを共有しているのではない。むしろ、他人と同じタイミングで体が動くのに気付いてはじめて何かが共有されていると感じるのだ、ということがわかる。
(細馬宏通 「聞くこと」を揺らすテクノロジー」)
~同上書P112

やっぱり大瀧さんはただ者ではない。
それこそ「赤の他人とのつながり」を自身の存在を軸に明確させようとする意志が大瀧さんには無意識化で働いていたのだと僕は思うのである。
天晴。天才だ。

 

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2 COMMENTS

雅之

・・・・・・大体ね、ステレオという方式自体もそんなに好きじゃないんですね。圧倒的にモノが大好きなんです。グチャっと混ざっている感じね。そこに熱を感じるんですよ。分離がいいと、何か、寒いというか、熱気が薄いというかね。

 後は、流麗な音や豪華な音は、情報量は多いことは確かなんだけど、でもそれは僕には過ぎたるは及ばざるがごとしのように聴こえてしまうんですね。余計な装飾のように聴こえてしまう。その余計な装飾が、肝のところをじゃましているような気がするんです。肝がすごくストレートに、直接的に伝わるのが僕にとって心地のいい音なんです。・・・・・・「サウンド・クリエイターのための、最新版デジタル・オーディオの全知識」柿崎 景二 (著) (白夜書房 2011/3/22) 対談 大瀧詠一 ✖ 柿崎景二  より 大瀧詠一さんの発言より(P185)

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E3%80%81%E6%9C%80%E6%96%B0%E7%89%88%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%81%AE%E5%85%A8%E7%9F%A5%E8%AD%98-%E6%9F%BF%E5%B4%8E-%E6%99%AF%E4%BA%8C/dp/4861917166/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1458398845&sr=1-2&keywords=%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%81%AE%E5%85%A8%E7%9F%A5%E8%AD%98

大瀧詠一さんが、SACDのほうに行かれなかった理由がよくわかります(そういえば、山下達郎さんも「DSDの音はガッツが無い感じ」とかおっしゃっていました)。

しかし、裏を返せば、「面白くて熱気を皆で共有できるのなら、アナログだろうがデジタルだろうが、人工知能が作曲した曲だろうが、そんなことはどうだっていい」と、大瀧さんが生きていたら、きっとおっしゃりそうです。

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岡本 浩和

>雅之様

>「面白くて熱気を皆で共有できるのなら、アナログだろうがデジタルだろうが、人工知能が作曲した曲だろうが、そんなことはどうだっていい」と、大瀧さんが生きていたら、きっとおっしゃりそうです。

まさに!
ブライアン・ウィルソンなんかも同じような考えを持っていたのだと思いますが、音楽の自然性という点ではモノラルの音なんでしょうね。実際、「ペット・サウンズ」なんかも圧倒的にモノラルのいわば団子状態の音に僕も惹かれます。

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