フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルのベートーヴェン交響曲第2番(1948.10.3Live)を聴いて思ふ

beethoven_2_furtwangler_1948504性に合わなかったとは思えない。
しかし、さすがに甘美な青春の記ではない、燃えたぎる粘着質の楽聖がここにはある。
なぜフルトヴェングラーにはニ長調交響曲の録音がこれ以外に残されていないのか?
不思議でならない。ハ長調交響曲から音楽的にも格段の進化を遂げ、「英雄」交響曲とはまた別の意味で革新的な大交響曲をフルトヴェングラーが不得手にしていたとは到底考えられないのである。テンポの伸縮はいつも通りで、しかも基本のテンポは速く、流れが実に心地良い。

ベートーヴェンの創造性は、混沌から出発して意識的な単純化をめざしているのであって、現代の作曲家たちのように意図的に複雑にしようとしているのではない。ベートーヴェンと他の作曲家を厳然と分けているのは、何よりもこの特徴なのである。・・・主題の展開、つまり主題のたどる運命に作用している要素がもうひとつある。・・・それは、霊的進化の論理である。主題の展開や、ある雰囲気から別の雰囲気へと移行するときの法則、どの主題とどの雰囲気を融合させて新しい全体像を作り上げていくかという感覚、一作品内で音楽を適切に進行させる感性―それらはすべて霊的な論理とでも呼ぶべきものの表象であり、それがベートーヴェンの音楽が世界に与える印象の本質を成している。
ジョン・アードイン著/藤井留美訳「フルトヴェングラー グレート・レコーディングズ」(音楽之友社)P151

極めて劣悪な音質から浮かび上がる第1楽章冒頭の轟音。興味深いのは音楽が進むにつれ、その音の悪さが一切気にならなくなる点。何より音楽がどの瞬間も息づく。それこそフルトヴェングラーが言う「霊的進化の論理」の体現である。

ベートーヴェン:
・交響曲第2番ニ長調作品36(1948.10.3Live)
・交響曲第4番変ロ長調作品60(1952.12.1-3録音)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

第3楽章スケルツォにおける超加速と、一方、トリオでの急ブレーキの対比の自然さはフルトヴェングラーならでは。また、終楽章アレグロ・モルトに醸される強力な磁場は、この作品が「英雄」以上にベートーヴェンの芸術的分岐点、否、人生の大いなる転換点であったことを示すかのようだ。コーダに向かっての猛烈なアッチェレランドの妙。興奮を覚えずにはいられない。

確かに交響曲第2番はかの「ハイリゲンシュタットの遺書」と同時期のものだ。

そのような死から私を引き止めたのはただ芸術である。私は自分が果たすべきだと感じている総てのことを成し遂げないうちにこの世を去ってゆくことはできないのだ。
~「ハイリゲンシュタットの遺書」

湧き立つ情熱とともに希望と愉悦に溢れるフルトヴェングラー指揮する楽聖ニ長調交響曲。
第2楽章ラルゲットの慈しみ。
ここには悟りを開かんとするベートーヴェンがある。

 

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