フィッシャー=ディースカウのマルタン「イェーダーマンの6つのモノローグ」(1983.8.9Live)を聴いて思ふ

mahler_schumann_martin_dfd530ご覧ください、わたしの善行はこんな体たらくです。
そしてわたしは、山ほどの罪を背負いこんでいるのです。
それはあまりにも重くわたしの上にのしかかり、
もっとも高き正義のかたであらせられる神がわたしをお許しくださるなど、とてもかなわぬことなのです。
(津川良太訳)

人間は恐怖を体験しないと信仰を喚起できぬものなのか?後悔にもほどがある。
改心すれば救われるというのはその通りなのだろうが、日々業を作り出す人間にあって重要なのは、常なる懺悔だろう。そんなに容易いものではない。
フィッシャー=ティースカウらしい、理知的でありながら激情伴う絶唱。阿鼻叫喚するオーケストラをバックにディースカウが祈るように歌う第6曲「おお永遠の神よ!神々しい表情よ!」。

その恵みにかけて、どうかわたしのこの祈りをお受けください。
(津川良太訳)

フランク・マルタンの「イェーダーマンの6つのモノローグ」。戦争を引き起こした人間そのものを揶揄するかのように、1912年のホーフマンスタールの戯曲に音楽を付した作曲者のほとんど悔悟の思念。そしてまた、戦時中とは思えぬ、現代風でありながら色気ある濃密な音楽に痺れる。
マルタンに関する1957年の柴田南雄さんの小論が素晴らしい。

前衛や復古調や民族的作風などが混沌と入り乱れている現代の作曲界で、マルタンのような存在は一つの救いといっても過言でないのだ。すべてに中庸で、地味で、作品の数も少なく、野心や気取りは人並以下、したがってジャーナリスティックに問題にされることがほとんどない。だが彼は真にすばらしい音楽感覚と知性に恵まれているし、西欧的な良識ということを彼ほど感じさせる作曲家も稀である。繊細で、デリカシーに富み、奔放に走らず、つねに抑制力をもち、良い意味でアカデミック、しかもけっして古くさくなく、適度な近代感覚にあふれている。「新古典的」という言葉が彼ほどぴったりくる人も稀であろう。
「柴田南雄著作集Ⅱ」(国書刊行会)P39

「繊細で、デリカシーに富み、奔放に走らず、つねに抑制力をもつ」という表現に膝を打つ。普段冷静なディースカウの歌に、ある意味過剰な色香を感じる理由は、マルタンの音楽の質にあるようだ。

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
・マーラー:さすらう若人の歌
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1951.8.19Live)
・シューマン:ゲーテの「ファウスト」からの情景
ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1961.7.29Live)
・マーラー:リュッケルトの詩による5つの歌
ズービン・メータ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1967.8.20Live)
・マルタン:「イェーダーマン」の6つのモノローグ
ハンス・ツェンダー指揮ORF交響楽団(1983.8.9Live)

ザルツブルク音楽祭の記録。
青年フィッシャー=ディースカウの歌う「さすらう若人の歌」も素晴らしい。スタジオ録音の名盤を凌ぐ音の細かい動きと、珍しい感情移入。明確に聴き取れるブレスは、まるでその場に居合わせるかのように生々しい。
例えば、第2曲「朝の野辺を歩けば」における深い呼吸の管弦楽の美しさ。
さらには、メータの指揮による「リュッケルト歌曲集」の情感豊かな歌唱。

美しさゆえに愛するのなら、私を愛さないで下さい。
愛のために愛すのなら、そうです。私を愛して下さい。
私を愛して下さい。私もあなたをずっと愛します。
(奥田佳道訳)

第5曲「美しさゆえに愛するのなら」が特に素晴らしい。そして、第4曲「真夜中に」の囁き!!
「さすらう若人の歌」にせよ、「亡き子をしのぶ歌」にせよ、またこの「リュッケルト歌曲集」にせよ、マーラーの神髄は、自然(生きとし生けるものによって作られる楽器群)と人(声)の交感によって創造される歌曲にあるとあらためて思う。

 

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