ミュートン=ウッドのブリテン ピアノ協奏曲(1946.12.9録音)ほかを聴いて思ふ

britten_mewton-wood536(同性の)愛人の死を嘆いて即座に後追い自死を選ぶ人の音楽にしては実に希望に満ちている。精神的にはおそらく強い人ではなかった。
哀しみのどん底にある時と、愉悦の真っ只中にある時の落差が激しいのだろう、トッカータ楽章やワルツ楽章の目くるめく軽快で楽観的な演奏に対し、緩徐楽章の夢見る切ない、今にも壊れそうな安らかな表現に音楽家としての自信と、揺れ動く感情のもろさの両方を僕は見た。

ベンジャミン・ブリテンのたった一つのピアノ協奏曲は、初演の後改訂され、そして、ノエル・ミュートン=ウッドのピアノ、作曲者の指揮により公に披露された。
第1楽章トッカータにある音楽の跳ねるような勢いは、モーリス・ラヴェルを髣髴とさせる。カデンツァのうねる激しさと静けさの対比。徐々に消えゆくピアノの弱音の後に、オーケストラを伴って紡がれる音楽の温かい響きに感動する。
また、第2楽章ワルツの洒落た踊りには、ミュートン=ウッドの遊びの心が溢れる。
飛びきり美しいのは、儚い第3楽章即興曲。ピアノ独奏の虚ろな旋律はエリック・サティの如し。そして、オーケストラの伴奏にはセルゲイ・プロコフィエフが木魂する。

自分の道は自分で切り開きなさい、というのが世の中の考え方だ。
私たちは、人に頼らずにすむようになってやっと一人前だ、と思っている。何かを求めるのはまだ未熟だからだ、だれかに頼るのは弱いからだ、と思っている。人と深くかかわることは、自立や自由を損なうことだと思っている。
私たちは、ほんものの出会いや愛の絆を心から望んでいるにもかかわらず、このような考え方のために、自分から壁を築いているのだ。
まったくこれは、なんと矛盾したことであろうか。一方で、自由や解放そして自立を求め、もう一方では、
だれかと一緒にいることを願っている。
このような状況のなかで、私たちは愛の絆を結ぼうと必死になっている。これでは複雑な問題が起きるのは当然だ。
結局、私たちはフラストレーションを起こし、むなしく釈然としない気持ちのままでいるしかないのだ。
私たちはみんなひとりぼっちである。これはほんとうに耐えがたいことだ。しかし、まぎれもない事実である。
レオ・バスカリア著/草柳大蔵訳「愛するということ、愛されるということ」(三笠書房)P210

ミュートン=ウッドの決然としたピアノは、まさに自ら道を切り開いてきたかのような響き。だからこそ、そこにはバスカリアが言うように大きな壁があった。孤独の影が垣間見える超絶技巧の、うねる終楽章行進曲の妙なるマジック!

・ブリテン:ピアノ協奏曲ニ長調作品13(改訂版)
ノエル・ミュートン=ウッド(ピアノ)
ベイジル・キャメロン指揮ロンドン交響楽団(1946.12.9録音)
・マティアス・セイバー:高声とピアノのための連作歌曲「詩に寄す」(1952)
・アラン・ブッシュ:テノールとピアノのためのカンタータ「預言者の声」作品41
ピーター・ピアーズ(テノール)
ノエル・ミュートン=ウッド(ピアノ)(1953.9.25録音)

ブリテンが信頼を寄せたミュートン=ウッドのピアノは、ピーター・ピアーズの歌とも抜群の相性で、セイバーやブッシュの歌曲が単なる伴奏とは思えぬ感情を伴い美しく奏される。何とも古い録音から湧き立つ表現し難い情念の塊とでも言おうか。
それにしてもピーター・ピアーズの声は何とも女性的できれい。

 

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